■格付けを題材に日本企業の財務戦略の転換を促す書
雪印をはじめとする食品会社の不正表示や、エンロンの不正会計疑惑など、最近、世間を騒がせている事件には、一つの共通点がある。それは、これらが「思考の分業」に係わる問題である、という点だ。
現代社会は、複雑な分業のネットワークとして発達してきた。分業の範囲は、今やアダム・スミスのイメージしたような「モノづくり」だけには限られない。現代社会は極めて複雑なので、「考えること」についてもかなりの部分を分業せざるを得ないのである。注意する必要があるのは、思考代行の専業者は寡占や独占になることが多いことと、その利用は「思考停止」と表裏一体であること、である。「国が関係してるから」「あの高級ブランドだから」「あの監査法人が監査しているから」「あのアナリストが推奨しているから」というような判断は、根拠を考えて使わないと非常に危うい。
格付け会社も、企業や債券の信用リスクについて、思考の分業を受け持つ存在である。忙しい投資家は自分ですべての企業の返済能力を査定することは難しい。複雑で多岐にわたる企業の活動を、単純な記号に集約することで、チェックのコストは大いに低減する。問題は、思考停止の度合いが高まると、記号が一人歩きする点であろう。財務大臣から一般企業まで「格付け会社、けしからん!」とお怒りの向きも多いが、怒ってもしょうがない。本業の領域で「うちはいい製品を作っているのに、お客が理解してくれない!」と怒る経営者はいない。マーケティングやブランディングを通じて顧客に価値を認めてもらってはじめてビジネスだということは十分理解されているのだ。同様に、財務面においても、お客である投資家(及びその分業先である格付け機関やアナリスト)に自社の価値やリスクを理解してもらえて始めて、経営と言えるはずである。
●デットIRに目をむけよ
本書は、格付け会社ムーディーズで第一線のアナリストとして活躍した著者が、信用リスクと格付けについてわかりやすく解説した本である。
著者は、日本は市場メカニズムを支えるインフラ自体がまだ非常に未成熟であり、現在が一種の過渡期である点を指摘する。従来存在した適債基準が撤廃され、社債が自由なリスク・リターンの時代に突入したのは、なんと一九九六年になってからであり、信用リスクについて考え始めた歴史が日本ではまだ決定的に短いのである。企業がデット(Debt=負債)で資金調達するのは、銀行からの借り入れがほとんどであり、日本のデットの市場は、株式市場に比べても、はるかに市場規模が小さい。信用リスク判定のノウハウも銀行以外にはほとんど存在しなかったし、市場のエージェントであるべき格付けのアナリストも、まだ玉石混交であると指摘する。
こうした歴史と現状を踏まえたうえで、著者は、「市場」に対応する方法を就職の面接に例えてわかりやすく解説している。つまり、いくら実態がいい企業であったとしても、トップが企業戦略についてあまり考えたことが無かったり、考えていてもそれをうまく「面接官」に伝えられないのでは意味が無いということである。
このため、著者は企業が「デットIR」について、もっと目を向けるべきだと提唱する。本書では、債券の投資家は「夢」よりも元本の返済可能性に重きを置くなど、株式の投資家向けIRとの違いを明確にし、デット利用のための戦略とIRを行う際の要点を解説している。
日本は従来、財務は銀行任せで、一般企業では資金やリスクについては「思考停止」していた。著者は、単に格付けの解説に止まらずに、こうした現在の過渡期の日本経済の本質を見据え、経営トップ自らがIRの最高責任者として、企業財務と市場との関係を改善することを提唱している。
■この本の目次
まえがき
第1章 信用リスクとは何か
企業の立場から見る信用リスク/激変する環境と信用リスク
第2章 誰が企業の信用リスクを決めるか
銀行/社債市場/格付け会社
第3章 格付け会社は企業の何を見ているか
信用リスクを分析する/ケーススタディ/格付け作業の流れ
第4章 負債と資本のバランスが重要な理由
信用リスクに対処する/信用リスクと調達コスト/戦略構築と情報伝達
第5章 IRの巧拙が命運を分ける
Debt IRとは何か/Debt IR活動の意義/負債調達の特徴
第6章 これからの経営者に必要なもの
環境の変化に対応する/企業価値向上への考え方/財務へ注目する
■著者
松田千恵子
東京外国語大学卒業。仏国立ポンゼ・ショセ国際経営大学院経営学修士(MBA)。株式会社日本長期信用銀行にて国際審査、不動産債権処理、海外営業などを担当後、ムーディーズジャパン株式会社事業会社格付けアナリストとして東京、ニューヨークで活動。2001年より株式会社コーポレートディレクションに参加、マネージングコンサルタントとして企業の経営・財務戦略、IR等を多く手がける。社団法人日本アナリスト協会検定会員。