アメリカの金融危機という現象を人類の歴史の中でどう考えたらいいかということは、今、世界中のみなさんが考えていらっしゃることではないかと思いますが、私もそれに関連して、この一週間「もしアメリカ大陸がなかったら」ということを、つらつら考えておりました。
(「歴史でifを考える」ことほどアホなことはないかと思いますが、加えて「地理でもifを考える」という大アホなお話ではありますが、ご容赦を。)
「現実の世界」では、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」して、その後、大航海時代に入るわけですが、放送大学「ヨーロッパの歴史(’05)」第14回「大航海時代と世界経済」によると、アメリカ大陸との行き来における船の損傷率が5%程度であったのに対し、アジアとの貿易での船の損傷率は25%にも上り、しかも、アメリカとの往復は1年程度で済むのに対して、アジアとの往復は2年以上を要したとのこと。
つまり、アメリカとの貿易のIRR(収益率)は、アジアに比べて遥かに高かったはず。逆に、「東インド」との交易は大変リスキーであったので、船員を集めるのにも苦労した。
また実際、大航海時代の到来によって、長期的に見るとヴェネチアやフィレンツェなどが行っていた中東経由の東方貿易は衰退して行くわけですが、これは大航海時代への突入直後に衰退したのではなく、アメリカ大陸発見の後もしばらく伸び続けて絶頂を迎えることになったとのことであります。
このため、(もしアメリカ大陸が発見されなくても、ヨーロッパ諸国がアジアに全く進出しなかったかというとそんなことはないと思いますが)、中東経由の陸路中心の交易の収益性が「競争」により圧迫され、物品の価格が低下したとしたら、ますます東インド貿易の超過利潤は低下し、アジアに海上ルートで進出するインセンティブは大きく下がっていたのは間違いないかと思います。
造船技術や航海術も、西インド向けの需要と合わせたからこそ急速に発展して行ったわけで、東インド向けだけのパイでは、そうした技術は、はるかにゆっくりとしか進歩しなかったでしょう。
こうした大航海は、ヨーロッパのその後の資本蓄積に大いに寄与したわけで、その後の産業革命も大きく遠のいたかと思います。
また、ヨーロッパ人が新大陸に押し寄せたことで、天然痘等の免疫を持たないアメリカ大陸の先住民が、病気と殺戮で全滅に近い状態になってしまい、そのため新大陸での労働力不足が発生し、それを補うためにアフリカとの奴隷交易が行われたわけですから、そもそもアメリカ大陸が存在しなければ、奴隷貿易という形での人間の移動も起こらなかったはず。
自由交易の下で経済が発展すると、国内の消費の需要が増大し、大国は貿易赤字が発生したりするわけですが、この大きな貿易赤字を埋めるものというのは、歴史的に見るとたいてい「いかがわしいもの」なわけです。貿易収支が国民が「額に汗して」働いた成果だとすると、それが均衡しないなら「額に汗しない」方法で均衡させるしかないわけで。
イギリスは、ご案内の通り、アフリカ大陸の部族に武器を売りつけて部族同士を抗争させ、捕らえられた人間を奴隷として買い取り、新大陸に輸送して三角貿易で貿易赤字を埋める手法を採用したわけです。同様に、中国にはアヘンを売りつけて貿易赤字の帳尻が合わせられれました。
以上のように、それもこれも、すべてはアメリカ大陸という巨大な「マージン」が出現したことによる財務的なインパクトに起因するわけで、こうした巨大で非連続的な変化が発生しなかったら、ここまで「非人道的な話」も発生せずに済んだはず。もともとヨーロッパに大きな労働需給のギャップがあったわけでもないので、わざわざ遠くから言葉も通じず単純労働以外には使いにくい奴隷を連れてくる経済的メリットはなかったはずです。
そう考えてくると、もしアメリカ大陸というものが存在しなかったら(またはアメリカ大陸がヨーロッパと地続きであって、ゲルマン民族の大移動などと同様、4世紀とか5世紀くらいで移動が済んでしまっていれば)、16世紀以降の世界は、(もちろん、地域的な小規模な紛争や民族間の戦争はあるにせよ)、よくも悪くも中世的世界を引きずりながら、よりゆっくりと(お上品に)変化をしていったはずであります。
市民革命は起こったかもしれませんが、フランス革命もアメリカの独立に触発された面は大きいかと思いますし、そもそも交易による利益の蓄積がなかったら、絶対王制の権力基盤もずっと弱かったはずで、革命の原動力となる「格差」もより小さかったはず。
清教徒(というキリスト教原理主義的な人たち)が移住したことが、「自由」「平等」を最も根源的な理念として掲げるアメリカという国が誕生した一つの要因となっているかと思います。逆に、もしこれが、従来からの連続的な変化しかおこらない旧世界だけの話であれば、世界はもうちょっと各民族それぞれを中心とする「エスニック」な社会のままに留まった気がします。
それでも世界の「グローバル化」は徐々には進展していったでしょうが、今より「他人の文化にドカドカ土足で踏み込む」度合いは小さかったかも知れません。
放送大学の「法システム�(’07)−比較法社会論−日本とドイツを中心に−」を拝見しても、自由のみこそが最優先されるというアメリカのノリとは異なり、ヨーロッパの憲法や法律というのは、かなり「社会」的であり、社会全体の福祉のためには個々の権利は制限されるべきであるという色彩が強い気がします。
「一回限りの囚人のジレンマ」ではなく、ある程度固定して定住している民族が長い付き合いの中で「繰り返しゲーム」を行う社会においては、「自由が大事」という考えは生まれるにしても、「やっぱ、社会全体が幸せにならないとだめだよね」という考えとバランスを取った考えが、創発的に生まれてくるものではないかと思います。
同じく放送大学「法システム�」の講義の第11回「グローバル化の下での国際移住と法」を参考にさせていただくと、移民法においてもやはりアメリカは特異であり、伝統的な部族国家をベースとするヨーロッパやアジアの他の国のものとは異なり、労働力不足を補うために積極的に移民を受け入れるためのものになっています。
こうした基盤を前提にして、アメリカというのは非常に「オープン」な現代の姿になっていったと考えられます。
以上のように、現在までの500年間の歴史は、今さら言うまでもないですが、アメリカ大陸発見というジャイアント・インパクトによって引き起こされたのだなあ、ということを改めて考えさせられます。
そうした流れを踏まえた上で、現在の状況をどう評価するか。
イギリスと同様、大国となったアメリカの消費の需要拡大によって引き起こされた貿易赤字を埋めるために膨大な資金を吸収する必要が発生したわけですが、そのために発達したのが、「市場経済的な金融」という手法であり、そのために、自由をベースとする市場経済的なイデオロギーが掲げられ、コーポレートガバナンス、監査、内部統制が高度化し、投資家への開示や会計基準の精緻化が進んだのは間違いないかと思います。
これを奴隷貿易やアヘン貿易と同様、「額に汗しない」「いかがわしい」手法であると見るのか、それとも人類や資本主義がより高い段階に進歩するために必然的に発生した手法と見るのか。
また、もしアメリカ大陸がなかったら、18世紀とか19世紀ごろにはすでに世界は「よりエスニックな形」で「均衡状態」に達していただろうけど、アメリカ大陸発見というジャイアント・インパクトによって、「均衡状態」に達するタイミングが数百年うしろにずれてしまった、と見るのか。イスラム社会とアメリカの対立などを考えると、「均衡状態」にはあと100年くらいは達しない気もしますが、現在は未だ、そのアウフヘーベンされた「社会」と「自由」が均衡状態に達する未来の「エスニックな」社会に至るまでの過渡期である・・・と見るのか。
それとも、アメリカの影響で、「自由」「オープン」といった概念が世界に実装されることになり、アメリカ大陸がなかった場合の中世の延長線上の均衡からは考えられない、「別の」進化の道を歩むことになったのか。
確かに、例えば通信技術について考えてみますと、アメリカという国がもし存在しなくても通信技術は発達したでしょうが、そこにはあまり「オープン」という思想が組み込まれたとは思えません。つまり、インターネットも存在せず、あったとしても、640×480で16色くらいの画面で56kbps程度の通信速度の「ニューメディア」で、「安心できる」限られたエスタブリッシュメントな企業のみがネット上に存在して、月利用料も数万円程度で高いので、結果としてあまり誰も使わないといったものしか存在しない・・・・ということになっていた気もします。
誰でも自由に参加できるインターネット上のビジネスは、極めて競争条件が厳しく、初期には超過利潤の獲得が見込めないわけで、現在の情報通信革命は、そうした「額に汗して」稼ぐ事業収益以外に、株式等で資金調達をするベンチャー企業の存在が不可欠だったと言えます。つまり、開示・ガバナンスといった「オープンな」金融の仕組みが存在してない世界では、現在のインターネットの世界は、成立しえなかったと言って過言ではないかと思います。
(加えて、イギリスがアヘン戦争やったりペリーが来航しなかったら、日本も未だに開国してなかったかも知れないので、男性の読者のみなさんや私の頭の上にも、未だチョンマゲがのっていたかも。「女性の解放」といったことも、アメリカという国がもし存在しなかったら、今のペースで進んだでしょうか?)
・・・と考えると、アメリカが存在したおかげで「オープン」な世界になってよかったよかった、とも思えます。
問題は、この「オープンな社会」というのが、「アメリカ大陸が存在してない場合のエスニックな社会」よりも一段「いい」(または「アウフヘーベン」した)形で均衡するのか、
それとも、「オープン」というパンドラの箱を開けてしまったせいで、もうクローズドな世界には後戻りできないから、グローバル化が進展して完全に世界が一体となるまで、永続的に激変が続く世界となるのか、
または、Pax Americanaが終わって、世界は不均衡な状態をたどり、核兵器等を大量に保有する人類は、お互いの殺し合いで滅亡していくという結末が待っているのか、
はたまた、世界に大量に蓄積された資産を運用するために不可欠な有限責任制度とモラルハザードは、私的なコントロールをいくら行おうとしても根本的に統制不能で不安定なものであって、やはり中世の延長線上のクローズドな世界の要素を取り入れて均衡する(「デューン砂の惑星」的な)未来になるしかないのか。
・・・そうした流れを評価するためには、少なくともあと50年くらいは世界をウォッチする必要がある気もしますが、今、われわれが世界史の大きな分岐点にいることは間違いない気がします。
できうれば、この金融危機をきっかけに、世界がうまい方向に進んで行って、この時代に生まれ合わせたことを感謝できるといいんですが。
・・・・と、以上、アホ話におつきあいいただきまして、ありがとうございました。
(ではまた。)
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もしも南北アメリカ大陸が存在しなかったと仮定した場合、その後の歴史はどのようになるでしょうか。 – 人力検索はてな はてなの質問。回答合戦に参加しようか…
金融工学の発達はコンピュータのおかげです。インターネットもコンピュータの発達による「必然の結果」だと思います。つまりコンピューターが人間の欲望を開放してしまった結果が今回の危機だと考えています。
ではどうするか?コンピュータやインターネットの使用をやめるか?それが出来ないのが苦しみの元なのでしょうか。
コメントありがとうございます。
>金融工学の発達はコンピュータのおかげです。インターネットもコンピュータの発達による「必然の結果」だと思います。
コンピュータという「技術」があっても、大量の資金調達という「ニーズ」が無いと、金融工学も発達しなかったんじゃないかと思いますし、「パケットで経路に依存せず通信できる」という技術的な意味でのインターネットは必然であったかも知れませんが、それを一般の人までが匿名でアクセスできるオープンなネットワークにしよう、という意味でのインターネットは、一つの「イデオロギー」が間に挟まっており「必然」ではないと思います。
・・・というのが私の書きたかったことです。
実際、今だからインターネットが当たり前に見えますが、90年代後半あたりではまだそれが普及するという確信はごく一部の人以外持っていなかったし、実際、もうちょっと世界が「中世的」であったら、「ATM」など、他の通信方法が普及していた可能性も十分にあったと思います。
(ではまた。)
初めて投稿させていただきます。
アメリカ大陸がなかった場合、どんな気候になるのでしょうか。しろうと考えなので根拠も何もありませんが、そもそも人間が進化するような条件が整えられたのか気になりました。
ネメシスが落下しても海を直撃するんですよね?(この辺うろ覚えですみません)
コメントありがとうございます。
>アメリカ大陸がなかった場合、どんな気候になるのでしょうか。
とりあえず、今回そのへんはパス、ということで。
「歴史にifはない」というのは、それだけいろいろ因果が絡まって歴史が作られているので、どこか一つの要因だけを変えてすべてを矛盾無く説明するというのは難しいということかと思います。
ただ、「大陸がすべて地続きだったら人類は進化できないた」か?というと、明らかにそうではないと思います。
今回のお話は、「人類の前に、突然収益性のある膨大な”フロンティア”が出現した場合と、そうでない場合に、社会のしくみは異なって来るのではないか」というあたり中心ということで、よろしくお願いいたします。
(ではまた。)
次のエントリー=ブータンのお話と合わせて拝読しました。「世界史の大きな分岐点にいることは間違いない」については全く同感です。また社会のあり方についてのご指摘からは–「オープンand/orクローズ」という二項対立では決してないでしょうが–若い頃に読みかじった、イリア・プリゴジンとか「散逸構造」といった話(”記号”)を思い出しました。根っからの文系人間なため、それらの事柄について説明することは到底かないませんのでご勘弁を。ただひとつ今でも覚えているのこと=20数年前の私がそれらから受け取ったメッセージは次のようなものだったかと。「外部からの刺激=エネルギーが入る余地のない閉じた環境では、いずれエントロピーが溜まりにたまって、全体が死滅」してしまう・・・」。いつか新たな平衡・秩序を、できればなるたけ早めに見つけだせたらいいな。
(遅レス、恐縮です。)
さすがhsakawaさん、しぶい御本を読んでらっしゃいますね。
仏教(というか「百億の昼と千億の夜」というか)では、弥勒菩薩が降臨する56億7千万年後には世界はエントロピー的死を迎えることになっているようですが、少なくとも直近の今後100年くらいの間は「刺激」は存在し続けるんじゃないかと思います。
「暴力の無い世界」と「刺激の無い世界」というのの間には、かなり乖離がある気がしますので、「エキサイティングだけど平和な社会」は、実現できてもおかしくないような気もするんですが・・・。
(ではまた。)
歴史に学ばない国なのか
昨日のエントリで紹介した日本の「安心」はなぜ、消えたのか—社会心理学から見た現代日本の問題点
を読んでいても思ったことなのだけど、山…