「コクリコ坂から」見て来ました(ネタバレ、ローカルネタ注意)

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「コクリコ坂から」を見て来ました。

個人的な感想としては、ナウシカ、トトロ、千尋、ラピュタ、魔女は岩盤なので「ベスト5」とまでは行きませんが、ジブリ映画でベスト8には入るかな、と。
ゲド戦記の悪評からは想像できないほどの、いい作品ではないかと思います。

以下、ストーリーというよりは、「横浜をモデルにしてるらしいけど、あのシーンのあれってどこ?」といった、ネタバレ、ローカルネタおかまいなしのお話を書き綴ってみたいと思います。

 

(改行を何行か)

 

 

 

 

「コクリコ坂」のモデルは代官坂?

横浜の中区報かなんかに「コクリコ坂のモデルは代官坂です」と書いてあったそうです。(伝聞)

代官坂というのは、以下の、元町から代官坂上にのぼる坂です。

 


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確かに、映画に出て来るメルの家の前の坂のくねり方は、代官坂に似ています。

(例えば汐汲坂だと直滑降すぎるし、港の見える丘公園から元町・中華街駅に下る坂だと太すぎますよね。)

坂を降りたらすぐ商店街になってますが、あの商店街が元町商店街だとすると、代官坂がぴったり来ます。

 

メルの家のモデル

近くにJRの石川町駅がありますが、石川町は江戸時代、石川家の代官屋敷があったことから名前が付けられています。
この代官坂の途中に今でもご子孫の「石川」さんの家があって、市の史跡に指定されています。(門前に説明書きあり。)

しかし、この石川さんの家は白壁と黒い木でできた和風の建物で、映画のメルの家のような水色の家とはちょっとイメージが違います。場所も坂の下の方すぎる。

 

メルの家が緑色なので、モデルはエリスマン邸かなあとも思ったのですが、エリスマン邸ほど欧米建築という感じではなかったですよね。

イタリア山の洋館かとも思ったのですが、これも洋風ですね。
KDDIのCMではイタリア山の洋館が使われているようです。)

 

うちの奥さんとも「あの建物、絶対、どっかで見た事ある!」と話していたのですが、どうも思い出せません。

(お心当たりのある方は、コメント等いただければ幸いです。<(_ _)>)

 

コクリコ坂から海は見えるか?

今回地図を見て気付いたのですが、代官坂の上(代官坂上)の交差点から坂の下の方にまっすぐ直線を伸ばすと、ちょうど氷川丸のあたりになります。

 


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現在は高い建物がたくさん建っているので代官坂の上の方からでも海はまったく見えないのですが、昭和30年代は、もしかしたら映画のCMにあるような坂から海が正面に見える風景が広がっていたのかも知れません。

 

(追記:13:02)

横浜市中区のホームページを見たら、コクリコ坂特集(pdf)になってますね。

 

201107191303.jpg
(↑坂から海はバッチリ見えているようです。)

 

ただし、映画ではベランダからも海が一望に見渡せるように描かれていましたが、代官坂の途中の家(しかも坂の上に向かって右手側)の家の裏からは、地形的に海は見えませんよね。

あのベランダからの海の風景は、横浜港側というよりは、新山下側くさいですよね。

海から見たシーンでも、メルの家の下は急な崖で緑が多いですから、中華街側から見たの風景とは違うはず。

新山下は今は倉庫や首都高等がありますが、地図で見ると平らなところは明らかに埋め立て地ですね。
(今でも屋形船や釣り船がありますが、当時は漁師町だったはずです。)
昭和38年の新山下側から見た風景は、ああいう感じで、崖のすぐ下まで海がせまっていたのかも知れません。

 

あの緑が多い急な崖は、現在でも、本牧や三渓園、根岸側からの風景に残っています。

今は、本牧や根岸の海岸線は、埠頭や石油コンビナートで埋め尽くされていて、ユーミンの歌に出て来る「山手のドルフィン」からも、(貨物船も見えますが)石油コンビナートも見えるわけですけど、昭和38年にはまだ石油コンビナートは無かったはずです。

本牧育ちの人に聞くと、

オレの子供の頃には本牧の海で遊べた。
子供の頃に急に建設計画が持ち上がった。今だったら「自然を壊すな」等の大反対運動が起こって建設出来る気はまったくしないけど、当時は反対するという概念すら存在しなかったようなのんびりした時代だったなあ。

とのこと。

別のおばあちゃんに聞いたら、

根岸湾でよく遊んだけど、ものすごく遠浅の海で、どこまで沖に歩いていってもまったく泳げる深さにはならなかった。

とのことでしたので、映画の、岸辺にあれだけ近い場所を船が航行するというのは、根岸湾側ではありえなかったということになります。

 


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本牧側には埠頭がたくさんあるということは、新山下や本牧側は潮の流れ等の関係で水深は確保できていて、昔から船の出入りはしやすかったということでしょうね。

 

ということで、メルの家のベランダから見えるのは、やはり新山下方向、と考えるのがよさそうです。
(代官坂からの風景ではありませんので、場所を組み合わせているフィクションだということでしょうね。)

ちなみに、Wikipediaによると、港の見える丘公園ができたのは、1962年(昭和37年)なので、映画の前年にはもうできていたわけです。

ということは、新山下側の海がベランダから見える家というのは、横浜インターナショナルスクールの前を抜けて、大韓民国総領事館からワシン坂のあたりまでの間、という感じになりますでしょうか?

 


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ちなみに横浜港方面にせよ、新山下方向にせよ、本牧方向にせよ、いずれにしても、対岸には千葉が見えるはずなのですが、映画では対岸が見えない海として描かれて千葉は無視されてますね(笑)。(遠くに見えるのが雲なのか、かすんだ千葉なのか判別不能でした。)

 

道路は舗装されてなかった?

私がちょっと違和感を感じたのが、道路。

映画では舗装されていない土の道路が描かれていましたが、昭和38年が舞台だったとはいえ、横浜の中心部であれば、アスファルトで舗装されていたんじゃないでしょうか。

私が育った杉並でもかなり早くからアスファルトで舗装が始まっていたんじゃなかったかと記憶していたからです。

自転車の練習は舗装された道路で行った記憶があるのですが、乗れるようになって練馬に入ったら、そこから急にジャリ道になったので区が違うとここまで違うのかとビックリした記憶があります。

しかし、目黒育ちだったうちの奥さんの母親が、結婚して横浜(三ツ沢あたり)に住むことになった時に「これはとんでもない田舎に来てしまった、と思った」と言っていたとのことなので、当時の横浜というのは、やはり都会からは程遠かったんでしょうね。

書いてるうちに私も記憶が蘇って来ましたが、昭和39年ごろの杉並でも、まだ、舗装されてない道路は多くて、そこここで舗装の工事が進んでいた気がします。
まさに高度成長期。「20世紀少年」ではないですが、当時は「原っぱに土管が置いてある」のがデフォルトでした。

ということで、映画で道路が舗装されてないというのは、考証的に正しいのかも知れないですね。

 

(追記:13:02)

前掲の中区のpdfを見ると、やはり舗装されているように見えます。

201107191310.jpg

 

「クリフサイド」「米軍」は?

代官坂の途中には戦後できた有名な社交場「クリフサイド」があります。

石原裕次郎なども東京から車で来て遊んでいたとのことなので、代官坂周辺は、かなり大人の風俗の雰囲気が立ちこめていたとも考えられ、あの映画の素朴な坂の雰囲気ではなかったかも知れないですね。

そういえば、昭和38年はまだ本牧に米軍が駐屯していたと思いますので、元町あたりには米兵も歩いてたりしんじゃないかと想像しますが、映画ではそのへんは捨象しているのかと思います。

 

崖の上から電車?が見えるシーン

崖の上から電車?が見えるシーンが一瞬あって、あれは何線なんだろう?と思いました。

「京浜東北線」は今は大宮から大船まで繋がっていますが、横浜から先は正確には「根岸線」です。

新橋・横浜(桜木町)間は、ご存知の通り、日本で最初に鉄道が通ったところですが、桜木町から先は意外に遅くて、Wikipediaを見ると、桜木町 – 磯子が開業したのが1964年とあります。

つまり、まだ映画の1963年時点では京浜東北線(根岸線)は通ってなかったわけですね。

 

ということで、あの崖の上から見えたトンネルをくぐる電車?は京浜東北線ではなさそうです。

「千と千尋の神隠し」にも下を走っている鉄道を上から見るシーンがあったので、それへのオマージュかとも思ったのですが、当時は、市電が元町から本牧に抜けるトンネルのところを走っていたので、それを高台側から見たシーンではないでしょうか。

 


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銀行のタオル

「港銀行」というタオルが台所にかかってるシーンが何度も出て来ますが、あれは当然、横浜銀行なんでしょうね。

横浜正金銀行は一般家庭と取引するような銀行ではありませんでした。歴史を見ると、横浜正金銀行がそのまま東京銀行になったのかと思いきや、営業を東京銀行に引き継いで横浜正金銀行自体は清算してるんですね。)

ちなみにWikipediaに書かれている、横浜銀行の発足の経緯も初めて知りました。

全国地銀の多くが有力両替商や旧国立銀行を母体としているのに対し、横浜銀行の前身・横浜興信銀行(よこはま こうしん ぎんこう)は第一次世界大戦後の反動恐慌下で破綻した銀行を整理する目的で設立されており、いわば現在の整理回収機構に近い、どちらかといえば後ろ向きな業務を主業とする銀行として発足した。

 

学校はどこ?

主人公が通う学校の理事長の会社が明らかに徳間書店がモデルです。
(壁に「アサヒ芸能」などのポスターあり。)

Wikipediaにある徳間書店の沿革は、以下の通り。

 

もともとは新聞社であり、竹井博友が1954年3月19日に興したアサヒ芸能新聞社がその源流である。(中略)

同社は芸能とゴシップ記事を中心とした『アサヒ芸能新聞』を発行していたが、余勢をかって大阪に進出を企てる。しかし、実際に大阪には、アサヒ芸能新聞社ではなく大阪讀賣新聞社が進出した。実は、創業者の竹井博友は読売新聞社の出身であり、同社の実力者である務臺光雄と懇意の間柄で、竹井は読売の影のキーパーソンだった。

竹井自身は新聞界への情熱は持っていたようで、ほどなく東京で一般紙『日東新聞』を創刊している。しかし、この『日東新聞』創刊が裏目に出てアサヒ芸能新聞社の業績は急激に悪化。竹井は遂に撤退を余儀なくされてしまう。後を引き受けたのが、同じ読売新聞社の出身で竹井の同僚の徳間康快である。

徳間は竹井に請われて同社の役員になった関係で残務処理に当たっていた。この時の徳間の姿勢に債権者・従業員・取引先の殆どが親近感を覚え、「会社をたたむより徳間氏の手で是非再建を」との声が各方面からおこった。こうして徳間は『アサヒ芸能新聞』を雑誌『週刊アサヒ芸能』に切り替え、アサヒ芸能新聞社も出版社・アサヒ芸能出版社に転換して再起を期した。1961年4月にアサヒ芸能出版の書籍部門を(旧々)徳間書店として分離設立した

 

なるほど、ジブリで徳間書店と日本テレビや読売新聞社がいつも組んでいるのは、こうした源流があるためなんでしょうね

舞台となった1963年は、竹井氏ではなく既に徳間康快氏が活躍していた時代ですね。

 

徳間氏は、逗子開成の理事長だったことで有名ですが、逗子開成は名前のとおり、横浜にあるわけじゃないし、男子校です。

(Wikipediaにあるこの逗子開成の歴史と徳間氏による建て直しの経緯も興味深いです。)

対して、山手のあのへんは、フェリスや横浜雙葉を始めとして女子校ばかりで、「私学で共学校」というのは、ちょっと見当たらないですねえ。

完全に架空の学校だということなんでしょうね。

 

 

以上、「この話はすべてフィクションです」と最後にも出て来ますので、実在の場所と完全に対応しないのはあたりまえですが、個人的には、上記のようなことをいろいろ考えながら見たら、イメージが広がって楽しかったです。

 

(ではまた。)

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1 thoughts on “「コクリコ坂から」見て来ました(ネタバレ、ローカルネタ注意)

  1. キネマ旬報8上旬号で、宮崎吾朗監督が対談で時代考証のことを語ってました。詳しく書くことは憚られますが、監督は『実は当時の横浜は中心地はほとんど舗装されていて、砂利道は路地ぐらいしかなかった。』と述べていました。なぜ舗装されていないかは対談で語られていました。時代考証の話がとても興味深かったです。