昨日、「投資契約もオプションだ!」というお話をさせていただきましたが、そこで申し上げたかったことを別の観点から申し上げると、「世の中のあちこちにデリバティブ的な要素は潜んでおり、そこが大きな『情報の非対称性』となっていて、市場をゆがめる原因になっているんじゃないか」ということです。
47thさんからまたトラックバックをいただきまして、非常に参考になりますので長めに引用させていただきますが、
アメリカの会社法で80年代から90年代頭にかけて流行った議論の一つに、「会社法の強行法規制」という問題があります。説明しだすと、長くなってしまうので、ものすごく簡単に言ってしまえば、次のようなものです。
会社法は、取引費用(transaction cost)を節約するための契約の雛形(standard from of contract)に過ぎず、当事者が望むのであれば、定款で会社法の規定の適用を排除することは自由である。
さすがに、この見解を100%正しいとする見解は主流派とはなりませんでしたが、それでも、この見解はコペルニクスの卵あるいは天動説から地動説への転換のような意味を持ち、現在のアメリカの会社法では、ある会社法上の規制を是とする根拠はどこにあるのかについて、非常に意識的に議論が向けられるようになっています。
こうした議論では、法律がある経済活動を「禁止」ないし「困難化」(ここでは、あわせて「規制」と呼びましょう)することによる社会的な損失にも目が向けられます。というよりも、そうした「規制」による損失を正当化するだけの根拠がなければ、それは強行法規(当事者が合意によって排除することができない法規)としての地位を確保し得ないことになります。
その反面、当事者の自治に委ねる以上、関係当事者が適切な意思決定をできるように、十分な情報開示がなされたかどうかが極めて重視されます。
そういう意味では、現在のアメリカの会社法の方向性は、企業の選択肢を広げた上で、ディスクロージャーの充実による、自発的な利害調整に多くの役割を期待しているといっていいでしょう。
とのこと。
この47thさんが紹介された論理にはもう一つ、「すべての人は非常に頭がいい」という前提が隠れているはずです。
つまり、「MSCB(転換条件修正条項付転換社債)や投資契約に基づくオプションやデリバティブ的な価値というのが合理的に算定できる能力をすべての市場参加者がわかっている」のであれば、開示された情報を正しく利用することができ、市場は適正な資源配分を保証するはずです。しかしながら、実は、そういった「市場のあちこちに潜むデリバティブ的な要素」のバリューがピンと来る方って、非常に少ないですよね。というか、皆無に近いといったほうがよろしいかと。
指数オプションのようにオプション的要素を純粋に蒸留したようなものならまだしも、MSCBのように商法や証取法とか数学がからみあう「複合芸術」の領域となると、理解できる方がさらにしぼられることになります。
具体的にいうと、(日本でそういうことがわかる方が10万人以上いるとはとても思えないので)、99.9%以上の方はそういうことがわからないわけです。
ということは、こうしたデリバティブ的な要素については99.9%以上の人は経済学的に見て「アホ」なわけですが、99.9%以上の人がわからないとすればそれは「フツー」というのが正しいわけで「アホ」とか「バカの壁」とか呼んではいかんのではないかと思います。
もちろん、証取法などでも「適合性(suitability)の原則」というような形で、こうした弱者(というかフツーの人)を保護する手はずは取られていますが、やはり、MSCBで見てきたように、そうした「ゆがみ」は、いろんなスキームを通じて「浸み出して」来るのではないでしょうか。
証券会社で指数オプションなどをやっていて大きく(1日何百万円、何千万円と)儲けてらっしゃるような方は、やはりというか、「σ」とか「√」とかを見ても決してビビらないような(超理系的な)職種についてらっしゃることが多いようです。
つまり、「デリバティブ的要素」によって市場がマクロ的に見て大きく歪むということはないと思うのですが、ミクロに見ると、大多数の「アホ(フツーの人)」から「超あたまのいい人」がちょっとずつ利益を吸い取って「一人勝ち」する構造になるんでしょうね。
換言すれば、こういうことを許す市場経済というのは、「投資銀行的な人」「ヘッジファンド的な人」に大変都合のいいしくみと言えるかも知れません。さらに「インボー史観」的な見方をすれば、そうしたアメリカにおける経済理論や法理論は、投資銀行やヘッジファンド的主体からの財政援助によって育まれている面は多分にあるんじゃないかと思います。
「それってなんかずるいじゃん」と考えるか、「機会は均等に与えられているのだし、そういう一部の人の一人勝ちを許すことで(旧)共産主義国のようなことにならずに国全体の生活水準がアップしてるのだ」と考えるか、ですが・・・。
(ではまた。)
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また採り上げていただきありがとうございます。私が申し上げるのも僭越ですが、いつもながらの御指摘の鋭さ。せっかくですので、関連で2つほどコメントさせて頂きます。
1つは、紹介したような「契約の雛形」観が必ずしもメインストリームになれなかった一つの理由が、磯崎さんが御指摘のように完全合理性を前提としたモデルと現実の人間像のギャップを埋め切れなかったからです。最近は、認知心理学を応用して限定合理性をとりこんだ行動ファイナンス分野の研究も進みつつあるようですが、私の勉強不足かも知れませんが、法的制度設計に組み込むところまではいっていないようです。
2つ目は、「インボー史観」については、実はアメリカの会社法学者の間でも「アメリカの企業法制度は経済合理性の産物ではなく、政治的な産物、もっと言えば金融資本と対抗勢力のパワーバランスの産物だ」という見方があって、これも結構結構支持を受けています。(ちょっと古い本になりますが、現HarvardのMark J Roeの書いた「アメリカの企業統治〜なぜ経営者は強くなったか」(邦題)に詳しいところです)
ただ、色々とありつつも、私の印象では、経済制度が複雑になる中で、それを「分析」したり「翻訳」したりする、種々の専門家市場が発達することによって、情報開示が生きているという気がします。正直、日本では情報開示自体の不十分さもあるのですが、その意味を「翻訳」できる専門家が不足しているのが一番の問題なのかも知れませんね。
アホの経済学とデリバティブ(津軽弁バージョン)
私がいつも正座して読んでいるブログの一つisologueさんで面白い記事がありましたので、ご紹介、というか津軽弁に超翻訳。(Powered by どんだんず君)
記事の真面目さ加減と津軽弁の語感が対極にあって、ミスマッチ感が素敵です。
議論が白熱するほど空回りしかねなぎ..