リンチと裁判制度と「祭り」と「美人投票」

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先日のエントリで、リンチという言葉を使ったところ、「派手な比喩で正義感ぶるな」という趣旨のコメントをいただきました。(追記15:32:確かに、ちょっと刺激の強い表現だったかな、と反省しつつ、最近の私の問題意識としてある点について別テーマのエントリを立てさせていただきます。)
確かにリンチ(私刑)は「恐ろしい」というイメージがありますが、そもそもは自由放任で刑が妥当な水準に決定されるのであれば、罪に対するペナルティの水準の決定は「市場」に任せておけばいいはずで、それ自体が恐ろしいという意味を持つものとは限らないはずです。
そう考えてみると、そもそもなんで「私刑」は禁止されてるんでしょうか。


 
当事者が関与して群集心理が働くと刑が社会的に妥当な水準には決まらない、ということは数千年の大昔から知られていたようで、世界で2番目に古いとされるハンムラビ法典(紀元前18世紀ごろ?)でも、「目には目を」と定めて、「目を潰されたから、殺してやる。」といった過剰な報復を禁じたということが言われていることは上述のエントリでもご紹介させていただきました。
ネット特有の現象として「祭り」が取り上げられることが多いですが、そういうポジティブ・フィードバック現象の発生は、はるか古代から裁判制度が整備されてきたので目新しく見えるだけで、実は放っておくと人間社会が必ず陥る本質的な現象なのではないかと思います。
Wikipediaも「裁く」という観点が入ってきてしまう項目については、編集合戦が繰り広げられてうまく機能しないように思われます。
同じく約2000年前(から)の新約聖書における、以下のような部分;

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(マタイによる福音書7.1)

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書8.3〜)

も、こういう「裁く」機能の難しさを示すとともに、「オマエモナー」と言われる可能性を自問させることで、ポジティブ・フィードバック現象の発生を防ぐ効果があるんではないかとも思います。
またこうしてみると、裁判を私的に行わせないというのも、「一般の人が天国に行けるように」、という配慮もあるのかも知れまへんな。:-)
では、裁判官が「裁いて」いるのかというと、(国によって制度も異なりますが)、基本的には、検察、裁判官、弁護士などの間で役割分担が行われて裁判官はそれぞれの主張を判断するだけですから、聖書時代における「裁く」という意味とは違うことをやっているようにも思われます。(ということだと、裁判官も天国にいける可能性が出てくる。:-)(このへん、キリスト教がメジャーな国の裁判官の方々はどう解釈しておられるのかを知りたいところであります。)
あらためて考えてみると、金融市場やネットの世界においては「自由」を極力重視しており、「美人投票」や「祭り」を防ぐしくみを(あまり)導入していないから、よく考えて行動しないと、みなさん「天国に行けない可能性」が出てきちゃうのでご注意ですね。
また、「ネットで取り上げられる」→「マスコミで取り上げられる」→「検察、裁判所にも影響」という流れが出来てくると、ネットの世界でのポジティブ・フィードバック現象が現実世界にも影響してきかねない。
検察官や裁判官の方々は、世論から独立して考えを決めるように教育されているのでしょうけど、一方で、社会の変化とともに世間が考える「正義」も変化するので、検察や裁判所が法令解釈の範囲内で「世論」にも配慮するのは当然といえば当然。
しかし、その世論がもし「祭り」的なフィードバック現象によって形成されたものだとしたら、恐ろしいところであります。
(ではまた。)

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13 thoughts on “リンチと裁判制度と「祭り」と「美人投票」

  1. かんべむさしの「カメガルーコート」が大衆によるジャッジを描いた小説として出色の出来ですので、強くお奨め。
    (公共考査機構 というのが単行本になった時の題名ですが、個人的にはカメガルーコートのほうが・・)
    ただし絶版なので図書館か古本屋というのが何とも・・
    復刻しませんかねぇ。

  2. 『今の生活から抜け出せるのか?豊かになれるのか?』Part1

    信州松本エスプレッソさんの怖いのは、「見せかけの成長」より「見せかけの安定」。
    には、全面的に同意します。
    ただ 目からウロコだったのは 次の三行。
    こ…

  3. 『今の生活から抜け出せるのか?豊かになれるのか?』Part2

    私個人は IPOについては、ミクシーをケーススタディーにして調べましたが、ミクシーの上場前の出資者には、名だたる大手機関投資家に並んで 末尾のほうに、出資…

  4. なんとも随分とズルい展開ですね。
    「派手な比喩で正義感ぶるな」とコメントしたのは私です。それは日興の上場維持に関することです。それをネット上の「祭り」に置き換えて別エントリーで反論されるとは呆れました。常に論点をズラしながら反論するのが、磯崎さんの常套手段なんですね。
    少なくとも日興の問題は、「ネットで話題」⇒「メディアが取り上げる」などという展開ではなく、「マスメディアの報道」が圧倒的に先行して事実関係が表面化しました。また、おそらく磯崎さんが考えているほど、世の中のマトモな人間は「ネットの祭り」などに影響されることはないでしょう。それを「資本主義がとんでもない方向に行く」と拡大解釈していましたが、このエントリーを見る限り、「自分の商売にマイナスになると嫌だ」というのが、貴殿の本心ではないでしょうか。
    これまで、「ネット」⇒「マスコミ」⇒「検察・警察」などと展開した事件がどれほどあるのでしょうか?ありもしない架空の敵を必死に批判するのは、たいてい「被害者意識」が原因です。ご自身の胸に聞いてみてください。

  5. いえいえ、「おれ」さんのご指摘が「祭り」だなんていう趣旨じゃなかったんですが・・・。
    (実際、コメント数は多めでしたが、議論は冷静なものが多くて、全然、「祭り」になってなかったんじゃないかと思いますけど・・・・。誤解させる表現でしたら申し訳ありません・・・。)
    ただ「リンチ」というのは、ちょっと刺激が強い表現だったかな、と「おれ」さんのご指摘で反省して、今回の一連のエントリのバックグラウンドにある私の問題意識について別のエントリを立ててみただけです。
    ご気分を害されたようでしたらお詫びします。
    (追記で言葉を補っておきました。)
    申し訳ありませんでした。

  6. リンチという恐怖

     被害者の刑事裁判参加がこの国会で法律として成立しようとしています。犯罪被害者権利の拡大を訴えてきた方たちの運動によって刑事司法は思想そのものからの大転換…

  7. 磯崎さん こんばんは!
    磯崎さんがブログで聖書の喩えを使われるときは 大受けしています。
    私はクリスチャンではありませんが、20歳前から聖書は読んでいます。マタイによる福音7は、かの有名な『山上の垂訓』の箇所ですね。
    もしかしたら 山上の垂訓さえも知らないまま 大人になっている人も多いかもしれないですね。
    そういえば アメリカのピッツバーグで暮していた頃、平均的なアメリカ人でも教会に通うのは子供の頃とリタイアした高齢者だけだったような記憶があります。

  8. 聖書というのはかなり社会のノウハウが詰まっていますよね。その手の原則が一定数の人に理解されている欧米(キリスト教社会)と、アジア・日本では、そもそもスタート地点が大いに違うのかもしれません。契約の概念などは特に

  9. そういや最近のニュースで、ネット掲示板の影響である女性評論家の講座が直前になって中止になったというのがありましたね(掲示板で騒いだ犯人も逮捕されたらしいですが)。
    「ネットで取り上げられる」→「マスコミで取り上げられる」→「検察、裁判所にも影響」とまで行くかはわからないですが、ネットでの影響が現実社会に影響を与えてきているのは事実なんでしょうね。

  10. 私刑と公刑

    リンチと裁判制度と「祭り」と「美人投票」
    という投稿より。
    そう考えてみると、そもそもなんで「私刑」は禁止されてるんでしょうか。
    ということを僕も考え…

  11. ちと遅いですが、キリスト教と裁判について。
    聖書で言う「裁き」と「裁判」は全く違うものです。
    (sinとcrimeの違いですね)
    ちなみにイエスは聖書で「神のものは神に、
    カエサル(皇帝)のものはカエサルに」と言っており、
    これは一般的には、
    「聖書の律法にだけ従ってればいいいんじゃなくて、
    国や共同体の規律・ルールは、それはそれとして
    ちゃんと守りなさいよ(神様に反しない限りは)」
    という意味に解釈されています。
    であるので、「裁判官が天国に行けない」なんて話は
    出てこないのです。彼らが行ってるのは「裁き」では
    なく、「裁判」でしかないので。
    「裁判」は、社会秩序を守るために便宜的に行われ、
    たとえばその過程で司法取引によって減刑された
    としても、あくまでそれは便宜的に減刑になっただけで、
    神の前ではちゃんと相応に裁かれますよ、
    というのが前提です。
    で、日本は「唯一絶対の真実たる神様」がない代わりに
    共同体・社会による「裁き」が行われており、
    それはそれでうまく機能してきたんじゃないかと
    思います。
    今起きている様々な問題(ブログ炎上とか)に対し、
    共同体・社会による「裁き」をとりあえず肯定した上で、
    それをうまく機能させる方策を考えていく、っていう
    アプローチも、ありではないでしょうか。

  12. >「神のものは神に、カエサル(皇帝)のものはカエサルに」
    なるほど、なるほど。
    >共同体・社会による「裁き」をとりあえず肯定した上で、それをうまく機能させる方策を考えていく
    なるほど。でも、「うーん」、ですね・・・・。
    どうもありがとうございます。
    (ではまた。)