日本郵船と商法・会社法の歴史(日本郵船歴史博物館、すごくいい!)

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いつか入ってみたいと思っていた横浜にある日本郵船歴史博物館に、ついに本日行ってきました。
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(弊事務所の大家さんが日本郵船さんだからおだてるわけじゃないですが)、ビジネスをやってる人なら、この博物館は一度は行った方がいいと思います。私はかなり感動しました。
「日本郵船が日本の洋食史にどういう影響を与えて来たか」等、いろんな展示があるんですが、全部書くと膨大な量になるので、今回は、商法・会社法上の発見のみ記載します。


日本郵船の沿革の概要
単に「日本郵船は三菱グループの運輸部門」と理解してらっしゃる方も多いかと思いますが、三菱グループの創業時には、そもそも「三菱=海運事業」だったわけです。
創始者岩崎彌太郎は、1870年(明治3年)に土佐藩から分離した回漕問屋「九十九商会」の経営をまかされてましたが、翌年1871年に廃藩置県とともに会社を引きついで(つまりMBO?して)「旧土佐藩士の組合結社となる」とあります。
このあと、1874年(明治7年)には、政府から台湾出兵の軍事輸送を政府から委託され、(政府系の日本国郵便蒸気船会社は、腰が引けていた模様で)、政府から信頼と保護を得て急成長し、独占的地位を得ていきます。
しかし1881年に明治十四年の政変が起こり、伊藤博文らが、三菱と仲が良かった大隈重信を追放し、政府は一転して三菱イジメに入ったようで、
政府、三井、渋沢栄一などが組んで半官半民の「共同運輸会社」を設立し、ダンピング競争を展開。
日本海運の共倒れを心配した西郷従道農商務卿(西郷隆盛の弟)が両社を呼んで、合併を提案した、とのこと。
私は、岩崎彌太郎は三菱グループの創始者として大もうけでウハウハの人生を歩んだのだとばかり思っていたのですが、国民や政府から儲け過ぎ批判されて、「俺を国賊呼ばわりするなら、船は全部焼いて、残りの財産は全部自由党に寄付するぞ!」的なことを言い、この年、失意のうちに50歳の若さで亡くなったんですね。
(三菱グループの人には怒られるたとえかも知れませんが)、今で言えば村上ファンド的な(「国の為にやってるのに!」という)感じで、さぞや悔しかったのではないかということが、博物館の展示から伺えます。
この西郷従道の調整の結果、両社が合併して、1885年(明治18年)「日本郵船会社」が誕生します。
早稲田大学(東京専門学校)の設立は1882年ですが、大隈重信が下野したことがきっかけという意味では、日本郵船と早稲田大学は、設立の原因を一にすると言えるかも知れません。

商法・会社法の源流
さて、展示で目を引いたのが、この日本郵船会社の設立の「創立願書」「命令書」「定款」であります。
Wikipediaの「商法」を見ると、

1881年4月、外務省嘱託であったドイツの法学者で経済学者でもあったヘルマン・ロエスレルに商法起草を依頼したのである。彼はドイツの商法を基(破産法などはフランスによる)にした草案を1884年1月に完成させた。この草案を基にして1890年に成立したのが、旧商法と称される「商法」(明治23年法律32号)である。この商法は「商ノ通則」「海商」「破産」の3部で構成されていた。これを審議した元老院では、施行を翌年1月からと定めた。

とあります。
つまり、日本郵船は、商法が施行される5年以上前に(つまり商法や会社法がまだ存在しないのに)設立されたわけです。
(というか、当時の日本はまだ商法どころか、憲法も帝国議会も存在しなかった。)
ミュージアムショップで「日本郵船百年史資料」という900ページ超の古書を5000円で売っていたので、つい買ってしまったのですが、これがまたかなりディープでいい!んですが、
この本には、設立以来の資本金、株式数の推移、取締役会議事録、決算などの資料が載っていて、この「命令書」も載ってます。今で言う「合併契約」と「日本郵船だけに適用される会社法的な内容」が含まれていて感動的です。
この命令書に基づいた日本郵船の「原始定款」も載ってます。
同書の解説によると、

日本郵船の設立時の、いわゆる原始定款は、命令書にそくして命令書公布日と同じ明治18年9月29日に作成され、同年11月7日に農商務卿の許可を得たもので、銀行を除くと、日本におけるもっとも初期の株式組織会社の定款として、重要かつ歴史的意義をもつものである。(中略)
ことにこの時期には海運関係の諸法規が整備されておらず、また商法も公布以前であるので、この原始定款は、非常に広い範囲の諸規定を定款のなかで成文化しており、全9章50条に及び、内容的にも詳細なものである。(中略)
第6章「株主権利及責任」、第8章「計算」などにおいては、のちの商法会社編において法制化される諸規定が全面的に定款として記載されている。
(中略)
この商法会社編の施行(注:明治26年7月1日)に際しては、時の内閣総理大臣伊藤博文が法の規定する株式会社の企業形態のモデルとして日本郵船に多大の関心をもち、この定款の作成について明治26年10月14日逓信次官、内閣書記官長および日本郵船の社長、理事以下を招いて逐条審議したといわれる。

と、あります。
(現代では、例えば「ファンドがビジネスのvehicleとして非常に重要になってきている」ということでも、総理大臣が有力ファンドの社長を呼んで組合契約書の内容を「逐条審議」する、なんてことはないでしょうね。)
具体的に定款を見てみると、

第一条 当会社ノ名称ハ日本郵船会社ト称スヘシ

とあります。ただの「会社」だったのですが、明治26年の商法会社編の施行とともに、「日本郵船株式会社」に社名変更してます。
第三条では、

第三条 当会社ハ有限責任トシ当会社ノ負債弁償ノ為メ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金全額ニ止マルモノトス

と、有限責任制がうたわれています。
当然、会社の定款に書くだけで有限責任が第三者に対抗できるわけもないですが、前述の西郷従道の命令書第一条に
「其会社ノ責任ヲ有限トシ負債弁償ノ為メ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金全額ニ止マルヘシ」
と書かれているのでOKということなんでしょうね。
草案が策定されたばかりの当時、非常に「cutting-edge」な商法の草案が取り入れられた、ということかと思います。西郷従道(?)、いい仕事してます。
株主平等原則については、現在と若干考え方が違うようで。

第三十七条 総会ハ株主総体ノ権利ヲ表明スル為メ十株以上ヲ所有スル株主ノ集会ニシテ之ヲ例式臨時ノ二種ニ分ツ

というところまでは、現代の株主総会で10株1単元とした場合と同様にも思えますが、

第四十四条 株主総会ニ於イテ投票ヲ為スニ当リ其所有株数十株ニ付一個ノ投票権ヲ有ス十一株以上二十株迄ハ毎十株ニ一個二十一株以上百株迄ハ毎二十株ニ一個百一株以上千株迄ハ毎五十株ニ一個千一株以上五千株迄ハ毎百株ニ一個五千一株以上総テ毎二百株ニ一個ヲ増加シ一人ニシテ百個ヲ極度トシ其余ハ投票ノ権ナキモノトス但代理ヲ受ケタル株数ハ其ノ人所有ノ株数ニ通算シテ本文ノ例ニ拠ルヘシ

と、株数に完全比例の議決権ではなく、持株数が増加するにつれ「おまけ」が付くようなんですね。(訂正:持株数が増加するにつれ、議決権数が逓減します。)
計算や分配可能額的な考え方も取り入れられています。

第四十七条 当会社ハ総テ複記ノ法ヲ以テ明細正確ナル帳簿ヲ製シ置キ政府ノ監査官又ハ株主ノ検閲ニ供スヘシ

「複記ノ法」というのは当然、複式簿記のことでしょう。博物館には当時の帳簿のレプリカも展示されていて趣深いです。
「配当可能利益」的な記述もありまして、

第四十九条 当会社ハ毎年九月三十日限リ其ノ損益ヲ計算シ総収入金ノ内ヨリ通常海陸ノ経費並ニ左記ノ金額及ヒ毎年負債元利償還ノ額ヲ引去リ自余ノ純益金ヲ以テ各株主ニ配当スヘシ但負債元利ヲ償還シ了ル迄配当金ハ八分ヲ以テ限リトナスヘシ
第一 保険積立金
汽船帆船トモ船体保険準備トシテ一箇年ニ付各船代価ノ百分ノ七ヲ積立ヘシ
第二 大修繕積立金
当分船舶大修繕及ヒ新船購入ノ準備トシテ一箇年ニ付各総船代価ノ百分ノ十ヲ積立ヘシ
第三 減価引除金
船価年ヲ遂テ逓減スルカ故ニ各総船代価ノ百分ノ五ヲ引除ヘシ

これは、よく読むと、

  • 総収入から引く金額に、利息だけでなく元本も含まれている、
  • 保険積立金というのは、当然「保険料」のことではなくて、自分でリスクマネジメントのために船の取得額の7%を毎年積み立てろ、ということかと思います。(Wikipediaによると1879年8月に「東京海上保険」設立とありますので、日本郵船の設立より早いのですが、この東京海上の保険は利用されていたんでしょうか?船体の保険料は社外流出してなかったんでしょうか?興味深いです。)
  • 「大修繕積立金」には「新船購入ノ準備」まで含まれている

ということからも、今の会計基準の利益概念よりも、資産性のある部分まで利益から差し引いた概念とし、内部留保を厚くとれるような決まりにしていたということですね。
減価引除金(減価償却費)は、20年の残存価格無し定額法、といったところでしょうか。
当然、まだ減価償却なんて概念が一般に知られているはずもないわけで、「船価年ヲ遂テ逓減スルカ故ニ」と、定款の中で減価償却の必要性を解説しているところがカワイイ気がします。
また、以上の引当等は、最重要資産である船だけに対するもので、他の固定資産一般については考慮されてないんですね。
明治26年の商法会社編の施行にあわせて、商法に規定されているものは定款からは省くなど定款もあちこちすっきり整理されています。
この18年から26年のバージョンで、すでに今の典型的な株式会社の定款の言い回しに似ている部分はかなり多いことに驚きます。つまり、現在の株式会社の定款の原型は、このころにすでにできあがったということなんではないかと思います。
他にも非常に面白そうなデータが満載なのですが、本日はこのへんで。
(ではまた。)

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3 thoughts on “日本郵船と商法・会社法の歴史(日本郵船歴史博物館、すごくいい!)

  1. こんにちは。この議決権の定め方は、持株数が増えるとともに議決権数が逓減し、100個でキャップするというものですよね。
    昭和25年改正までは法律がスカスカだったために、そのような定めも許されていて、実際そのような定款規定を置く会社は多かったようで、それによって一部の大株主によって会社が専断的に運営されにくいという安心感を一般の投資家に与えていたようです。(加藤貴仁『株主間の議決権配分』より)。

  2. 東京海上保険の保険は、荷受保険で、船(不動産?)の保険は当時ないはずよ。

  3. そうなんですか。
    どうもありがとうございます。
    保険制度の初期には財務内容的に、船本体の保険を受けるというのはキツかった、ということなんでしょうね。
    (ではまた。)