「会社法がない時代」の「会社」

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「日本郵船と商法・会社法の歴史」シリーズで、日本郵船歴史博物館のミュージアムショップで「日本郵船百年史 資料」を見つけて、「宝のありかをしるした古地図を発見した少年のような気持ち」になっている磯崎です。
さて、大杉先生からご紹介いただいた本;

会社の誕生 (歴史文化ライブラリー)
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が、Amazonから届きましたので、若干、今までの補足と訂正を。

  • 商法施行以前に「会社」の概念はあったか?
  • 50円額面の普及は日本郵船の設立がきっかけか?
  • 日本郵船の大株主の議決権制限は政府のインボーか?

 

商法施行以前に「会社」の概念はあったか?
明治26年の商法会社編の施行までは会社を規律する総合的な法律がなかったので、「法律が無いんだから、そもそも法人格や有限責任といった概念自体が存在したのかなあ?」と思っていたのですが、個別の法律や認可等で「会社」という概念はあったようです。
最も初期のものが「国立銀行条例」で、その第18条第12節で、

銀行の株主等は縦令(たとえ)其の銀行に何様の損失あるとも其の株高を損失する外は別に其の分散の賦当は受けざるべし

と、「明確に有限責任であることが規定されている。」(P43)ので、「会社」や「有限責任」という概念は、(一般人にどれだけ浸透していたかはともかく)、すでに明治5年には存在していた、ということになります。
ただし、会社についての有限責任概念については、かなりテキトーだったようで。
明治4年の廃藩置県の直後に、府県の地方官の任務を定めた「県治条例」が定められたそうですが、その細則の「県治事務章程」に「諸会社を許す事」と書かれており、「特別に法令で定められた会社は別として、一般の会社については、地方官が許可してよいと考えるか、あるいは判断に迷う場合は、処分案をつくり主務省に稟議のうえ、許可を得れば施行せよと定めているのである。」ということだったようですが(P47)、
明治10年に「神奈川県は内務省に対して、『官許』の会社でも有限責任・無限責任を規則で取り決めていない場合は無限責任と見なすべきか」との伺いを出したところ、内務省は司法省に紹介し、司法省は、

官許の有無を問はず、該社則定款又は申合規則中有無限の明文掲条無き分は、条例[会社法]発行迄は其の責任総て各自所有の株高にとどまり候儀と相心得可き旨指令致す可し

と、「無限と書いてなければ有限責任でいいんじゃない?」と回答してます。(P57)
ところが、株主の責任について第三者にちゃんと伝わってない場合に会社が倒産して、債権者に「有限責任ですからここまでしか返せません」と言ったら、当然、債権者はブチ切れるわけで、そういうトラブルもあったようで(P58)、
明治19年あたりには、社外の者に対して有限責任が適切に通知されていない場合には、たとえ府知事の認可があったとしても有限責任とは言えない、という大審院の判決が出てます。
これは、有限責任という概念自体があまり普及していなかったであろう時代の債権者を保護するにはいいですが、逆に、株主としてはおっかないことこの上無い。定款で有限責任をうたって役所の認可を受けて設立しても、倒産したら無限責任を負わされる可能性があるというのでは、怖くて出資できたもんじゃありません。
(つまり、日本郵船の設立時には西郷従道の命令書で有限責任がうたわれているので、それで安心かと思っていたのですが、商法施行までは、日本郵船の株主は潜在的に非常にリスクのある状態におかれていたわけです。)
こういう黎明期のドタバタを見ると、「会社法があるといかにありがたいか」ということがよくわかりますね。

50円額面の普及は日本郵船の設立がきっかけか?
また、国立銀行条例では第5条第1節で

国立銀行元金の株高は百円宛を以て一株となし

とあるので(P43)、この後に設立された会社は100円額面の会社が多かったようです。
同書で引用されているチェクパイチャヨン氏の「明治初期の会社企業」という論文で、明治2年〜13年までに設立された国立銀行を除く81社を分析したところ、株式を発行している60社の額面は20円から1500円までに分散されているが、次第に100円に収斂する傾向があり、明治9年から13年までに設立された32社のうち、50円額面の会社は1社しかなかった(P65)とのことなので、もしかしたら50円額面を採用した明治18年の日本郵船の誕生が、その後の50円額面という慣習に大きく影響しているのかな、とも思ったのですが、ちょっとなんとも言えません。
同じく引用されている宮本又郎・阿部武司氏の「明治の資産家と会社制度」という論文によると、明治14年〜明治25年設立の株式を発行している48社のうち、50円額面が19社(39.5%)と、100円額面の16社(33.3%)を抜いているので、このへんの時代が50円額面の普及期ではあると思います。
日本郵船設立時の資本金1100万円というのは、今で言うと多分、数千億円とか数兆円といった金額で、当時の銀行以外の会社の資本金としてもトップクラスのデカさだったので、日本郵船が50円額面を採用したことは、それなりに影響があったかも知れません。
また、明治23年施行の商法では、資本金10万円以上の会社は額面50円以上の等額額面とすることが定められ(原則は20円以上)、その後、明治32年の「新商法」施行で、すべて50円以上の額面とされたことが大きいかと思います。

日本郵船の大株主の議決権制限は政府のインボーか?
日本郵船の定款では、大株主の議決権に100個の上限が設けられていたので、これは政府の三菱イジメのための規程ではないかと思ったのですが、大杉先生もご指摘の通り、必ずしもそれだけとも言えないようです。
同じく大杉先生からご紹介いただいた

株主間の議決権配分—一株一議決権原則の機能と限界
株主間の議決権配分—一株一議決権原則の機能と限界

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によると、そもそも国立銀行条例は明治5年の最初のバージョンでは、1株1議決権を定めていたが、9年の改正で後の日本郵船設立時と同様の、大株主になるほど逓減していく方式になっていたそうです。(P6)
「会社の誕生」でも、

国立銀行条例は一株一票制を定めており、その後は一時はそれを引き写したケースが多かったものの、在来の慣行と大きく異なる制度はそのままには普及しなかったと見られるのである。(P63)

としています。「在来の慣行」というのは、みんなでよりあつまって一出資者一票的に議論していた人的な会社の慣行というイメージでしょうか。
このあたり、やはり日本社会では、放っておくと「特殊決議」的、一株主一議決権的な方向(「金持ってりゃ偉いってもんじゃねーぞ」「みんな、会社に出資する仲間じゃないか」的な方向)に引きずられる傾向があるのかも知れません。

ということで、こうした議決権の制限が、当時ユニークなものだったかというと、そうではなかったんでしょう。
しかし、私がExcelでせっせと推測させていただいたように、岩崎家(久弥+弥之助)で36.8%と、まあまあの量の株式を保有していたのにも係らず、二人とも「100個の上限」に引っかかって、議決権比率に換算すると計5%未満の議決権しかなかったわけです。
60,917株の岩崎久弥(議決権100個)と10株の株主(議決権1個)では、609倍!もの「1株の格差」があるわけですし、そもそも合併前の三菱側にはそんな規定があったとは思えないことからすると、三菱側がこの規定を喜んで飲んだとは私にはとても思えません。
もう一つ、三菱商事さんのサイト「三菱人物伝」vol.22 渋沢栄一と彌太郎で、

権限とリスクは一人に集中すべきと確信する岩崎彌太郎。多くの人の資本と知恵を結集するのが近代経営と説く渋沢栄一。明治の日本経済を代表する二人の実業家は、事業経営に全く異なる信念を持っていた。

という記述を見つけました。
一見、渋沢栄一の考え方の方が「民主的・近代的」に見えますが、現代の(特に「アメリカっぽい」)資本主義の考え方では、「株主”数”が多いほど知恵が結集される」という考え方は皆無かと思いますし、むしろ、優秀な経営者には強力な権限を持たせて、その代わりに社外取締役などがガッチリ見張るコーポレートガバナンスの方がいいとされているかと思います。
明治期の「取締役」が本当に経営者を「取り締まる」社外の識者等だったとすると、岩崎彌太郎ないし三菱のコーポレートガバナンスの考え方の方が「現代的」だったと言えるかも知れません。
ところが結果として日本ではつい最近まで、「在来の慣行」ないしは「渋沢栄一的」ないしは「人的会社」的な「利害関係者がみんなで知恵を出し合って」というコーポレートガバナンスの考え方の方が主流になっていた・・・・ということでしょうか。
以前も申し上げた通り、日本郵船の”合併”による設立においても、半官半民の「共同運輸会社」側の定款がそもそもそうした(渋沢栄一的な)議決権逓減型の規定になっており、株主も桁違いに多数いたのでしょう。
こういう場合の”合併”においては、当然、「特殊決議」的な(「少数株主が力を持てるっていうから出資したのによー」的な少額多数の株主の)力が働くので、そちらに合わせざるを得なかった、ということかも知れません。
この「合併」直前の両社の貸借対照表も「資料編」に記載があって、これがまた両社の合併前の財務状況を垣間見せてくれて大変興味深いのですが、その話はまた機会があれば。
(ではまた。)

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