「長銀刑事事件最高裁判決の意義と今後の影響」についてに対して、ブログ「企業会計に関わる紛争についてのデータベース」(sdpartnersさん)からトラックバックいただきました。
長銀刑事事件最高裁判決 (その1)
isologueに、長銀最高裁判決の弥永真生教授の評釈についてのエントリーがありました。
私も磯崎先生の主張を全面的に支持したいと思います。
(なお、最高裁判決の概要をざっくりと理解したい方には葉玉先生のエントリーがお奨めです。)
(中略)
私は磯崎先生の論旨に完全に賛成ですが、別の角度からの最高裁の前提を批判したいと思います。
それは、最高裁の見解は、「公正ナル会計慣行」にいう、「慣行」の概念を字義通りの「慣行」(=しきたりとして行われていること(三省堂「大辞林 第二版」より))と解することにこだわりすぎているがためにおかしくなっている、ということです。
「公正ナル会計慣行」とは、「慣行」という文言を含んではいるものの、字義通りの「慣行」というよりは、真実性の原則に従った、公正妥当なものとして一般に是認しうるルールという程度の、規範的意味での「慣行」と解すべきだからです。(注)
なるほど!
会計士は、商法で言うところの「公正ナル会計慣行」とは「企業会計原則を頂点とする規範・考え方の体系」だ、といったことを財務諸表論等で教わるので、「慣行」と書いてあっても「しきたり」のことだと思う人はまずいないんじゃないかと思いますが、確かに、商法の条文しか読んだ事が無い人は、「しきたり」的なものだと思ってしまうのかも知れませんね。
これは、(逆)目からウロコでした。
また、法律から入られた方は、商法第1条の
「商事に関し、この法律に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法(略)の定めるところによる。」
というのの、「慣習」というイメージで「慣行」をとらえやすいかも知れません。
(確かに、民法よりも先に適用される法源である「商慣習」というのは、かなり重めにとらえられるべきかも知れません。)
「考え方」と「しきたり」のどこが違うかというと、それが形成されるまでの「時間」の概念ではないかと思います。
そのため、例えば、最先端のビジネスを行っている会社の会計監査を担当することとなると、そのようなビジネスについての、文字通りの会計ルールなど存在するわけが無く、真実性の原則を根拠にあるべき会計ルールを模索することになるのです。
字義通りの「慣行」などというものがおよそ存在し得ない場合(すなわち、ルールとしての明確性、具体性などは、事前には「真実性の原則に従え」という程度しか示されていない場合)が、会計の世界では多々あるのです。
日本初採用、という会計処理が会計監査の現場では日々生み出されているといっても過言ではないはずです。
そうすると、「公正ナル会計慣行」にいう、「慣行」の概念を字義通りの「慣行」と解し、その概念の延長に、規範としての明確性、具体性が備わっているべき、とその点に強くこだわった解釈を最高裁のようにしてしまうと、こうした会計実務は「公正ナル会計慣行」によるものではない、と否定されてしまいます。
これはおよそ妥当とはいえない見解です。
「しきたり」と解すると、(明文で強制力のある規定等がある場合を除いて)、その形成には一定の期間を要するということになりますが、「フェアかどうか」ということであれば、その処理や表示を決定した「瞬間」に「慣行」が形成されてないと困るわけです。
もちろん、取得原価主義から時価主義への移行など、「時代の大きなうねり」とか、その影響が徐々に浸透して行くということはありますが、もう一つ、法律専門家の方をはじめとして一般の方が非常によく誤解をされている点に、
「正しい会計処理はただ1種類であり、その正しい処理をすれば、財務諸表の金額はただ1つに1円単位でぴたりと定まる。」
ということがあると思います。
これも大きな誤解でして、一般に公正妥当と認められる会計原則に従ったとしても、許容される処理にはいくつか種類があったり、「幅」があったりするのは、ごく普通のことです。
このため、「瞬間的」に「慣行」が形成されるとしても、それは「唯一無二の処理によって1円単位で金額が確定する」ということではなく、幅のある「フェア」な範囲が定まるということですので、念のため。
そう言われて、最高裁の判決を読み直してみると、(結論にどれほど影響を及ぼしたかどうかはともかく)もしかしたら、
「慣行=(形成に時間のかかる)しきたり」
と考えていたのかも知れないなあ、とも思いました。
(一方で、さすがに、「公正ナル会計慣行とは何か」といった学者の方の意見書や論文は読まれていたのではないかとも思いますが・・・。)
ともかく、sdpartnersさんにもご同意いただいた通り、
「真実性の原則は「公正ナル会計慣行」の最も重要な要素の一つであり、それに反する処理が商法に違反してないなんてことは、あるわけがない」
ということであって、最高裁の判例の解釈がどうあれ、「真実性の原則に反する処理が商法違反でない」なんて見解が「今後に影響を及ぼ」されちゃ困るのであります。
(ではまた。)
[PR]
メールマガジン週刊isologue(毎週月曜日発行840円/月):
「note」でのお申し込みはこちらから。
憲法上のプリンシプルであるはずの基本的人権が時代によって形を変えてきたと
いう歴史があり、(一旦確立した権利が将来消えるということはないだろう、と
思いたいですが、判例変更により公務員の人権は一旦緩和されたが、後に制限が
強化されたという経緯もあります)、また、法の遡及適用というものが一般的で
はない(利益を増進する場合について行われるのが原則)ことも考えると、プリ
ンシパルとやらに反していたかいないかは、表現の仕方の違いに過ぎないのでは
ないか、とも思えます(もちろん望んでいないことですが)。いつの時代にも対
応できるプリンシプルをもつ、それは一方で、場合によっては予測可能性に乏し
く、いかようにも権利を制限できてしまうお上の都合の良い道具になる危険性を
孕んでいるってことにはならないのでしょうか(故意に虚偽申告をするような企
業に肩入れしているわけではありません)。
トラックバック先の
「一般的に採用されていたか、とか、規範として具体的かつ明確か、といった点
よりは真実性の原則への適合性をより重視すべきです」
に関しては、もし、会計の専門化から見て、当時の(現在よりも狭義?)真実性
の原則に反している、にも関わらず判例が反していない、と判断したのだとした
ら問題で、その通りだと思いますが。
「一般的に採用されていたか、とか、規範として具体的かつ明確か」という点が
重視されているのをみると、否が応でも「刑法の嫌抑性、自由保障機能を重視し
…」という論文のキーワードを思い出します…
もちろん、民事事件となればまた話は変わると思います。
「憲法に基本的人権が定義され、それを守ろうとすることが、お上の都合のいい道具になる可能性がある」ということをおっしゃりたいわけじゃないですよね?
同様に、「真実性の原則」を定義してそれを守ろうとしてもよろしいんじゃないかと思いますが。
会計基準は世の中の活動の森羅万象を数字に落とし込むためのものなので、人間が読める程度の量のルールでは、すべてを「明確に」決めるなんてことは無理なわけで、自ずと「フェアな処理とは何か」という判断が求められるわけです。
トラックバック先のsdpartnersさんのブログで、次回、「会計と罪刑法定主義」について書いていただける、とのことなので、ワクワクしながら待ってます。
(ではまた。)
いつも勉強させて頂いております。
大きく取り上げていただき、感激しております。
今回は参照する文献が無い中でエントリーしてしまったので、トンチンカンなことになってはいないかと危惧しておりました。
磯崎先生に御賛同いただき、心強く思っております。
先生が今回のエントリーの中で指摘されているように、会計のルールの中には、法律専門家の方をはじめ一般の方々に誤解されている点が多々あると思います。
とりわけ、会計に関する法的紛争が激増している昨今においては、法律と会計の業際問題は、具体の紛争の中で深刻な問題を引き起こす場面も増えていると思います。
かかる問題について、実務家としての視点から考察を続けていきたいです。
罪刑法定主義の問題については、(今度こそ)文献にも目を通した上でエントリーしたいと思います。
まずは、本件控訴審判決である東京高裁平成17年6月21日における罪刑法定主義の議論から復習を始めてみます。
長銀刑事事件最高裁判決 (その2)
先週後半は業務が山場を迎え、また、週末は娘の幼稚園選び2箇所、自身の結婚6周年記念行事、講演会への参加、と盛りだくさんであり、ブログの更新が遅れてしまいま…