「会計慣行」とは何か・・・商事法務論文「旧長銀事件最高裁判決の検討」に関連して

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商事法務の最新号に、岸田雅雄・早稲田大学教授の「旧長銀事件最高裁判決の検討」という論文が掲載されています。
前半は、旧長銀事件の概要や判決の評価などが書かれておりまして、このへんは頭にスッと入ってくるかと思います。問題は最後ほうに書かれている「公正ナル会計慣行」に触れた部分。
以前、旬刊経理情報に掲載された筑波大学ビジネス科学研究科の弥永真生教授による「長銀刑事事件最高裁判決の意義と今後の影響」という論文についてコメントさせていただきましたが、この岸田教授の論文における「公正ナル会計慣行」についての解釈も、若干違和感がありますので、以下、検討させていただければと思います。
(かなり長文になってしまいました。)


商事法務30頁の文章を以下に一部引用させていただきます。

さらに、実際上もっとも困難な問題は、その適用時期である。法令の場合には適用時期が明らかにされ、官報でそれが周知されるが、それ以外の会計基準の場合にはそれが必ずしも明らかではない。
なお「公正ナル会計慣行」はあくまでも「慣行」である。したがって、新基準が「慣行」化されるまでの相当の期間は、新基準は「唯一の基準」とはならないと解すべきであろう。これに対し、「これから反復・継続される見込みが高ければ、一回目に適用された時点で「慣行」であると考えてよい」とする説がある(注一一)。しかし、条文上、「慣行」という言葉は、商法一条二項の商「慣習」、民法九二条「慣習」と同様に、ある程度継続的に行われているものをいうものであって、将来反復継続される見込みが高ければ一回目で適用された時点で慣行というのは無理があるように思われる。

「慣行」は「慣習」と同義なのか?
上記のとおり、岸田教授は、「『慣行』というのは形成されるまでに時間がかかる説」を唱えてらっしゃいます。
しかし、以前の「長銀刑事事件最高裁判決の意義と今後の影響」について(その2)でも、ブログ「企業会計に関わる紛争についてのデータベース」(sdpartnersさん)のトラックバックに同意する形で書かせていただいたとおり、旧商法第32条2項で言うところの「会計慣行」というのは、商法1条の商「慣習」等とは違って、それが形成されるまでに必ずしも時間はかからないんじゃないでしょうか。
ここで引用されている「これから反復・継続される見込みが高ければ、一回目に適用された時点で「慣行」であると考えてよい」とする説、というのは、注11を見ると、弥永教授の「コンメンタール会社計算規則・商法施行規則」(商事法務2007)90頁のこととなってます。
つまり、弥永教授は「慣行」の形成時間については、「一回目から『慣行』もアリ説」を採ってらっしゃるようです。
しかし以前のエントリでも述べたとおり、私は、一回目から「会計慣行」になるのはもちろん、さらに進んで、弥永教授がおっしゃるような「これから反復・継続される見込みが高ければ」という要件すら不要だと思います。上記のコンメンタールが手元にないので弥永教授の正確な意図を存じ上げないのですが、「反復・継続」とは、たぶん、その一回目に適用した会社が反復・継続適用するかどうかということをおっしゃっているのではなくて、世間一般で反復・継続される見込みがあるかどうか、ということをおっしゃっているのではないかと思いますが、最初に特定の処理をしたときに、これからどうなるかまではわからんはずだし、考える必要もないのではないかと。
もしあえて書くとしたら、(最初から「継続性の原則」を踏みにじろうという意図があるなら当然、公正妥当とはいえないので)、「継続される見込みが無い場合を除き」くらいの表現でいいのではないかと思います。
会社法関連の条文で見る「会計慣行」と「基準」
商法や会社法でいうところの「公正ナル会計慣行」「一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行」というのは、会計士用語でいうところの「一般に公正妥当と認められる企業会計の基準」のことかと思います。
会計監査人(監査法人等)は、会計監査をして監査報告書を書くことを業としているわけですが、会社計算規則第百五十四条(会計監査報告の内容)1項2号イ(無限定適正意見)で、監査報告書には、

監査の対象となった計算関係書類が一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行に準拠して、当該計算関係書類に係る期間の財産及び損益の状況をすべての重要な点において適正に表示していると認められる旨

を書け、ということになってます。(「慣行」という用語が使われていることに注目。)
しかし、実際に監査報告書に記載されるのは、

当監査法人は、上記の計算書類及びその附属明細書が、我が国において一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠して、当該計算書類及びその附属明細書に係る期間の財産及び損益の状況をすべての重要な点において適正に表示しているものと認める。

といった文言です。つまり「慣行」ではなく「基準」という言葉が使われています。つまり、少なくとも会計士は、会社法でいうところの一般に公正妥当と認められる企業会計の「慣行」は、一般に公正妥当と認められる企業会計の「基準」と同義だと考えているわけです。
「慣行」という用語を文理的に考えると「形成されるまでに時間がかかる」イメージがぬぐえないかと思いますが、会計実務の実態にあわせて「基準」という用語で考えれば、時間がかかるというイメージは薄らぐのではないかと思います。そして、(アンケートをとったわけではありませんが)会計士の多くも、おそらく、「基準」が形成されるのに一定の時間が必要だ、なんてことはあまり考えてないのではないかと。
「一般」とは誰のことか? — “Generally Accepted” by whom? 
かつて、私が社会人になって会計の勉強をし始めたころ、ベテラン会計士の方に、
「『一般に公正妥当と認められる会計基準』は、誰が決めるんだと思う?」
と問題を出されました。
「『一般』というからには、企業会計審議会とかが決めて、企業の経理部の人や国民一般を含む大勢の人に認められた基準、ということじゃないですか?」
と言ったところ、
「違う。
会計士が『一般に公正妥当と認められる会計基準』だ、と言えば、それが『一般に公正妥当と認められる会計基準』なのだ。」
というお答え。
そのときの私は「なんてエラそうな!」と心の中でつぶやきましたし、みなさんも同じお考えを持たれたのではないかと思います。
特に、昨今の世の中では、会計士一個人や会計士ギルド内だけで基準が判断されるという考え方には強い違和感を感じられる方が多いと思いますし、実際その後、監査報告書にサインする会計士の独断で決められるというよりは、監査法人内の審査・教育制度の充実、監督官庁の監査法人に対する検査の拡充といった方向に改善・シフトしてきているかと思います。明文化された基準も大量かつ詳細になり、会計士の自由裁量の余地は少なくなってはきています。
しかし、公認会計士法第四十七条の二で、財務書類の監査又は証明をすることは公認会計士及び監査法人の独占業務とされていますので、基本的には、その考え方は今でも生きているんじゃないかと思います。つまり、一般に公正妥当と認められたという「一般に」というのは、国民全体を母集団としないことはもちろん、全上場企業の経理部門の人にアンケートを取った結果でもなく、「会計士や会計に関する学識経験者などのプロ的な人たちを中心とした人たちの集合の中だけで『一般に』」、ということで十分かと思います。
なぜなら、前述の公認会計士法のとおり、「会計慣行」に準拠しているかどうかを判断することを業にできるのは、基本的には会計士(監査法人)だけだから
(もちろん、「二重責任の原則」のとおり、第一義的に準拠性を判断するのは会計士ではなく会社であります。また、憲法が裁判を受ける権利を保証しているので、裁判官はその会計士の判断を上書きできるわけではあります。[追記]また、監査役や監査委員会は、その会計監査が相当かどうかを判断するわけでもあります。)
国民全体や一般企業の経理部全体に認められるためには、かなり長い時間がかかるのではないかと思いますが、会計原則への準拠性を日々考えているプロに「基準」が行き渡るのは、それよりかなり短い時間で十分とも言えるのではないかと思います。基準への準拠性を考える場合には、「行き渡っている」必要すらなく、「他の会計士等も同様に考えるだろう」というだけで十分かも知れません。
裁判官の「自由心証主義」との対比で考えてみる
私は、日本は、世界の中でも最も「成文法的な」法律の理解をする国なんじゃないかと思っております。(小学生時代の「バナナはおやつに入るんですか?」といった質問を皮切りとして、異様に「黒」と「白」の境界をルールで明確にしたがる傾向がある。)
しかし、商法や会社法が「斟酌スヘシ」や「従うものとする」という形で会計慣行にゲタを預けているのは、会計というのがそもそも「成文法的な考え方」になじまない性質をもっているからではないでしょうか。
つまり、哺乳類を含む真核生物の細胞の中のミトコンドリアは、もともと全く違う生物が細胞に取り込まれて一体になったものでDNAも全く別だ・・・・みたいな感じで、成文法的な商法や会社法の体系の中に、英米法的というかエクイティ(衡平法)的な「会計原則」が組み込まれているのではないかと思います。
つまり、(会計専門家以外の)「一般の」人は、「会計基準」というと「明文化されたルールの束+α」という成文法的なイメージでとらえており、それへの準拠性というのは、「そのルールに従えば、『正しい会計処理』というのは自動的に一意に定まる」というイメージでとらえられているのではないかと思いますが、違うんじゃないかと思います。
英米法の知識もろくにないので、法律勘のある方により身近な例えにさせていただきますと、裁判官が「自由心証主義」に基づいて判断を行うことになっており、明文化された「判決作成マニュアル」といったものに沿って判断すれば判決が自動的に一意に決まってくるものでないのとのアナロジーで考えられるのではないかと思います。
「自由心証主義」は、裁判官が自分の趣味や思いつきで気ままに判決を書くことではないはず。もちろん明文化された法にも基づくけれど、自分の良心に従って専門知識などが複合した「何か」を中心に据えて判断されていることと思います。
同様に、会計士が考える「会計原則」というものも、明文化されたルールの束を基本にはするものの、その他のものも複合した「何か」を中心に据えて判断する、その「何か」に近いイメージなのではないかと思います。
逆に、「なぜ『法定証拠主義』ではいかんのか?」ということを考えてみるのも手かも知れません。
法定証拠主義にすると、例えば証拠として自白が必要と定められていたら自白を拷問などで強要するなど「形式に走る」弊害があるとされているわけですが、それ以前に、そもそも世の中の森羅万象を扱って一定の判断を下す場合、明文化されたルールに従って機械的に判断すれば妥当な結論にたどり着くなんてことはありえないし、ルールというのは判断の一部であって、他に膨大な証拠や資料をもとに総合的な判断をくだす必要があるということが本質ではないかと思います。
特に(日本では)裁判というのは世の中の比較的極端なケースを扱うことが多いのではないかと思いますが、企業会計というのは、まさに企業の「日常」を数字に落とし込むものであって、これをルールで縛るなんてことはそもそも無理なのではないかと。
放送大学で拝見している石川純治駒澤大学教授の「現代の会計」の授業第三回に、「利益は『意見』であり、キャッシュフローは『事実』である」といったお話がでてきますが、これは損益計算というものの本質を端的に示した言葉ではないかと思います。
「新たな会計処理」の準拠性についての考え方
論文では、旧長銀の判決の貸付金の評価の話を取り扱っており、既存の会計基準がすでに存在するところに次の会計基準が現れた時にいつから「慣行」になるのか?という話をしているわけではあります。
しかし、ここでより一般化して、例えばベンチャー企業が、誰もやったことがないようなビジネス(例えば、ネットでポイントを付加してうんぬんとか)とか、誰もやったことがないような資金調達(エクイティ性のオプションをつかってうんぬんとか)をやったときのことを考えてみましょう。
この場合にも、当然、会社は何らかの会計処理をしなければならないわけですし、監査法人は、それが「会計基準(=慣行)」に準拠しているかどうかを判断しなければなりません。
(会計監査というものは上場企業のみに適用されるものではないのはもちろん、特に、会社法になってからは、どんな小さな会社でも会計監査人設置会社になれるようになったので、会計士はとてつもなく突飛で前例のない事象の会計処理も、「会計慣行」に準拠しているかどうか判断しなくてはいけないことになりました。)
その場合、
「『慣行』と言えるからにはそれなりの時間がかかるが、御社の処理は誰もやったことがない会計処理だから、会計『慣行』に準拠しているとは言えない。今回は意見不表明(または、限定付適正意見)とさせてもらいます。」
てなことを監査法人が言ったら、「ふざけんな」ということになるのは必至です。そして、もちろん、監査法人は「ふざけんな」と言われるのがいやで適正意見を書くわけじゃなくて、「慣行」の形成に時間がかかるとは思っておらず、そのときの状況や将来の見込みを総合的に判断すれば「慣行」に準拠しているかどうかは判断できると考えるのではないかと思います。
「成文法的理解」に従って、こうしたベンチャー的な新しい取引の会計処理の準拠性を判断する考え方としては、明文化された個別の会計基準が存在しない場合には、より上位の基準(例えば、真実性の原則)に従うのだ、という考え方がありましょう。
しかし、結局のところ、「真実な報告を提供するものでなければならない」といった抽象的でシンプルなルールから、演繹的・自動的に「あるべき処理」が導出されるはずもありません。
ましてや、前出の弥永教授の論文のように、

より一般化して理解するならば、たとえば、イギリスなどのように、個別の会計基準に従っているか否かを問わず、真実かつ公正なる概観を示さないことが会社法違反にあたるという考え方はわが国の(平成17年改正前)商法や証券取引法の解釈としては採用しないという立場を本判決はとったものと推測される。

といった解釈がホントだとしたら、真実性の原則すら危うくなってきてしまいます。そんな解釈がまかり通ったら、監査をしている会計士は困っちゃうのであります。
やはり、真面目にやってるすべての企業に対して「一般に公正妥当と認められる企業会計の基準に準拠しているものと認める。」という監査報告書が書けるためには、「基準」なり「真実性」というのは、「成文法的」「アルゴリズム的」なものではありえないでしょう。だからといって、裁判官が「自由気まま」に判断しているのとは違うのと同様、会計士も「オレがそう思ったから」というだけではなくて、より複雑で総合的な観点から判断を行っているはずです。
よりオープンな方向性は無いのか?
以上のように、会計慣行への準拠性が、こうした「非成文法的」「非アルゴリズム的」な判断になることは一種しかたないことだと思います。
その「非成文法的」「非アルゴリズム的」な判断は、「社会環境や企業の実情にあわせてフレキシブルな判断が行える」というメリットがある一方、「第三者から見て、決定のプロセスがよくわからん」という最大のデメリットがあるかと思います。
だからこそ、「自由心証主義」だった裁判制度も司法改革の波に洗われているのではないかと思いますし、公認会計士制度も前述の通り大きな変革が行われました。
以上をまとめると、「公正ナル会計慣行」=「一般に公正妥当と認められる企業会計の基準」というのは、つまり、平たくいうと「他の多くの会計士もエエ言うんとちゃう?」くらいの意味だと思うのですが、実際に会計士全員にアンケートを取って聞く訳にはいかないものの、特に大手の監査法人においては、二重三重のチェック・審査制度が既に導入されており、近似的に「会計士ギルド界の意見の大勢」が反映されるしくみになっているのではないかと思います。
一方、特に世間がこんな状況で四半期報告書も導入された昨今、各上場企業の経理担当のみなさまにおかれましては、「アレが減損されるかどうかギリギリ」「この繰延税金資産が資産計上できるかどうかの瀬戸際」といった件で、昨今の会計士の超保守的にも見える判断に、「なにを根拠に!」と、激怒されてらっしゃる方も少なからずいらっしゃるのではないかと思います。
保守的な分には、その判断が裁判になる可能性は低いかと思うのですが、逆に、長銀、ライブドアや日興さんのように、「利益が増える選択肢」に会計士からのツッコミが入らない場合には、取締役や監査役は大きなリスクにさらされることになります。
ここは、取締役の善管注意義務や経営判断の原則に従って、会計処理に関するセカンドオピニオンも得ておきたいところ。
しかし、ご案内の通り、日本公認会計士協会の倫理規則の第9条で、会計処理に関する「セカンドオピニオン」については極めて慎重な対応が求められております。
アメリカのM&Aでは、裁判所にケチをつけられないように、独立委員会を立てることはもちろん、独立性のある法律事務所2社、企業価値算定会社2社、といった重装備で、「ここまでやれば、文句ないでしょ?」といったことになってるらしいですが。つまり、結局のところ、こういった「フェアかどうか」といった判断は、「絶対的真実」ではないがゆえに、「独立した専門性のある第三者が、一所懸命真面目に考えました。これ以上、一体どうせいっちゅーねん?」という外観を作り出す以外に、客観的にフェアさを証明する方法はないかと思います。
にもかかわらず、医療でも法律でもセカンドオピニオンが取れる時代に、会計だけはセカンドオピニオンが取れないというのはキツい。
この倫理規則9条の規程は、反保守的な意見を求めるオピニオンショッピングに利用されることを防止しようという趣旨だとのことですが、この規程があるせいかギルド社会のせいか、日興さんのときも、監査委員会がセカンドオピニオンを求めようとしても得られなかったといったことが報告書に書いてありました。実際に、監査法人の監査がちょっとおかしいな、と思った時に、他のちゃんとした監査法人がセカンドオピニオンを書いてくれるという可能性は非常に小さいのではないかと思います。(これは、取締役としては実に恐ろしい。)
もちろん、本質的には、会計原則に準拠しているかどうかは極めて大量のデータや証拠に基づく「総合的な判断」であり、それがゆえに例えば事実を箇条書きした程度のものを前提に「こういう処理もアリじゃない?」なんてことは軽々しく言えないし、もともと利益の額が一意に定まるものではないから、ということかと思います。
ということで、会計基準への準拠性というのは本質的にわかりやすくはならないものなのだ、ということが結論なわけですが、とはいえ、もうちょっとなんとか、一般の人にもわかりやすくする方法はないものかなあとも思います。
以上、大変な長文かつ駄文になりましたが、「会計慣行」を考える際の何かのお役に立てば幸いです。
(ではまた。)

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2 thoughts on “「会計慣行」とは何か・・・商事法務論文「旧長銀事件最高裁判決の検討」に関連して

  1. 成文法とサムライ

    isologue 磯崎哲也氏の
    「会計慣行」とは何か・・・商事法務論文「旧長銀事件最高裁判決の検討」に関連して
    の考察には全面的に共感します。

  2. 「慣行」を「基準」に読み替えるのは公認会計士監査的発想であって、「公正ナル会計慣行」の意味するところを十分に表しているとは思えません。
    会計基準に沿った処理をしなかったとしても「公正ナル会計慣行」の範囲を維持しうるのは、『中小企業の会計に関する指針』が作成された経緯を考えれば明らかではないでしょうか。
    その点で、弥永論文には私も強い違和感を覚えるわけですが…。