投稿日時: 2005年9月3日 投稿者: admin 「暴力」とは何か この夏、駒大苫小牧高の事件を見て思ったこと。 相撲部屋で親方が竹刀で弟子を叩いているのは、あれは「暴力」なのか、「指導」なのか。 「格闘技」はアリだけど、「野球」だからダメなんすかね? 「プロ」はいいけど、「アマ」はダメとか? (ではまた。) Tweet [PR] メールマガジン週刊isologue(毎週月曜日発行840円/月): 「note」でのお申し込みはこちらから。
高野連は一発でも許されないと言っていますが、駒大苫小牧の指導者は最低でも10発やっている。 わたしが情けないと思ったのは仲間が暴力を振るわれているのに他の部員が黙って見ていたことです。 なぜ抗議しないのか。指導者に対して唯々諾々。野球奴隷。優勝は取り消されなかったが彼らに栄光はありません。
ここのブログ日経新聞で拝見してから、ちょくちょくくる様になりました。 私も社歴も経理一筋なので大変参考にさせていただいております。 それはさておき、 わたしも、元寺尾さんの新人親方奮闘記を偶然テレビで見ていて 先生と全く同感の感慨をもち、会社でもそのような会話をしていたところです。 そこでの結論としては、「拳に愛情があるか否か・・」ではないでしょうか? 形式は違えど、社会にてでも例えば上司からの言葉の暴力、いじめ、そのようなものは いくらでも存在します。。 次の時代を担う青少年、少女達がこれからどのような環境化で成長していくのか? 心配な気分になります。 久しぶりに大好きなマリーンズの試合テレビでみてますが・・いまのところ 残念!!
子供が間違いを起こせば、「言って聞かされる」 それでもわからなければ「痛い目にあう」 みんなそのように大きくなってきたはずです。 暴力は当然、公にはNGです。そんなことは誰でもわかっている。 大人が綺麗ごとだけ言えば言うだけ、子供がだらしなくなる。。 このスレでだけでもそうはっきり思えてしまう。
いつも読ませていただくばかりでコメントしたことはないのですが、 いち高校野球ファンとして一言。 高校野球の一番の特徴として、スポーツ自体が目的なのでなく、 「スポーツを通じた心身の教育」というコンセプトがあるからなのでしょうね。 開閉開式のおエライさんの挨拶を聞いていてもわかります。 だから、強ければいいというものではなくて、強くなる過程も大切で、 少年犯罪の温床ともなる生徒自身の犯罪や暴力には敏感になるべきだし、 教師の暴力についても、子どもの権利という観点から教育現場での体罰をタブーとする 最近の風潮は野球部であっても同じだというのが高野連の考え方なのでしょう。 ある意味、青少年を取り巻く最近の流れを反映しているのかもしれません。 その是非は別としてですが。 どうもお邪魔いたしました。
>大人が綺麗ごとだけ言えば言うだけ、子供がだらしなくなる。 まさにその通りで、「愛情があれば暴力が許される」という綺麗ごとがまかり通り、大人は自分を正当化している、信用できない、という風潮が広がり、子供達も同じような大人になるという悪循環になっていると思います。 ガンジーではありませんが、非暴力にこだわるという勇気を持つことが大切なのですよね。
教育機関での暴力など、どんな理由であれ、許されるはずがなく、愛情があろうがなかろうが、暴力をふるってしまう教員は、教育者としての才能がないから、やめさせるしかありません。ほっておけば、最後は生徒を殺してしまうでしょうから。これは極端な話ではなく、現実にいくらでも起こっています。たいていの場合、殺人罪はまぬがれていますが。 相撲部屋で暴力が許されるのは、そこが親方と力士の運命共同体であり、とにかく強くならなければ、親方も力士も飯の食い上げで、廃業するしかありません。 親方や先輩力士は、強くするために必要だから殴っているので、愛情がどうのという問題ではありません。殴られても強くならないような力士は、なるべく早くやめたほうが、社会復帰が容易ですから、やはり本人ためにもなるのでしょう。もちろん、制度が変わればその限りではありません。 プロ野球では、球団と選手は通常の雇用関係どころか、選手一人一人が個人事業主ということですから、暴力など介在する余地がありません。長島監督などは、よく選手を殴っていたようですが、これは勘違いと言うものです。
大相撲の師弟関係の場合、絶対的な上下関係はありますが、弟子が相撲をやめると一社会人同士の関係性の戻ります。師弟の関係は双方の合意に基づくものです。 野球部員が野球部をやめても学生です。野球部に入部したのは本人の意思によるものでしょうが、教師と学生という関係性は必ずしも当人が積極的に獲得したものでなく不可避的なものです。 そのような二重の優位性の上で暴力など横暴な行為を行うと世間の反感を買いやすいかも知れません。 大相撲も中学校を卒業して入門してくる人も多くいるでしょうから、必ずしも一般的に社会人と呼ばれる年齢に達していない人もいるかもしれませんが、積極的に自らの意思で選択し職業としてのトレーニングを受けていると世間からは認識されているのでしょう。 先の方もプロ野球に触れていますが、野球やアメフトなどの西洋型スポーツでは「個人」が最低単位であり、「部屋」をそれとする相撲では「部屋」内部のことはあまり問題にならない空気がただよっているように思われます。舌戦でメディアをにぎわしている部屋もありますが(笑)
んーと、私は中国武術を習ってるのですが、先生は自分には非常に厳しい練習を課すにもかかわらず、門下生に対しては自主性にまかせ、無理矢理やらせるようなことはしません。 「厳しい練習をさせないのですか?」と以前質問したところ、 「みんなが戦争に行かなきゃならないはめになったらやらせるw」とお答えになりました。 つまり、なんとしても技能を短期間に急激に向上させる必要があり、そうでなければ命の危険すらあるという状況下なら、「やらなきゃならないこと」ってのがあるわけですね。 軍隊とかはそうでしょう。 もしかしたら、大相撲もそうなのかもしれません。 で、「高校野球」ってのは果たしてそういうものなのか?というところが争点なのではないかと。
上記「パ」さんに賛成です。 誰かが相撲部屋は運命共同体と言っておられたが、学校経営だって 特に、高校野球を短期的な売名前略と位置付けている私立高校なんて 教諭と生徒はまさに運命共同体であることをお忘れになっていないか?
竹刀でたたく。 この一部分のみを見ていると当然暴力に見える。 たぶん、「しごき」的な暴力もあると思うが、全てが暴力だけではない。 技術ではなく技能を習得するためには、科学的な合理性のみを追求していては、習得できない。 (それならば全員がチャンピオンになれる!、なってしまう。) 相撲のような身体を中心とした技能を習得するためには、何千回という技の繰り返しが必要。何千回と 繰り返すうちに自然に無駄なものが削ぎ落とされて自分の型が完成する。意識がない中で、意識が薄れ ていく中で繰り返し行うことは技能を習得する上で必要な要素。また動きの中の悪い部分を「認知」する 上で「たたく」ことが必要になることもある。 そう、スポーツは科学に頼る領域と非科学的であるが「繰り返しに」頼る領域がある。当然両方とも必要。 一部を見て判断することは非常に危険ではないのだろうか? 全体を見て判断することが、いじめ、しごき、稽古、練習を判断することになると思う。 暴力と判断する前に、現象をみる我々の目をもっとスキルアップしないと情報に迷わされるのではないの か……
高野連は一発でも許されないと言っていますが、駒大苫小牧の指導者は最低でも10発やっている。
わたしが情けないと思ったのは仲間が暴力を振るわれているのに他の部員が黙って見ていたことです。
なぜ抗議しないのか。指導者に対して唯々諾々。野球奴隷。優勝は取り消されなかったが彼らに栄光はありません。
大げさに言うと、世界が紛争の解決に武力を使うのをやめない限り、暴力によって指導を行うことをやめさせることはできないでしょう。
そして日本はどんどんそういうものが復活する方向に向かっていると思う。
ここのブログ日経新聞で拝見してから、ちょくちょくくる様になりました。
私も社歴も経理一筋なので大変参考にさせていただいております。
それはさておき、
わたしも、元寺尾さんの新人親方奮闘記を偶然テレビで見ていて
先生と全く同感の感慨をもち、会社でもそのような会話をしていたところです。
そこでの結論としては、「拳に愛情があるか否か・・」ではないでしょうか?
形式は違えど、社会にてでも例えば上司からの言葉の暴力、いじめ、そのようなものは
いくらでも存在します。。
次の時代を担う青少年、少女達がこれからどのような環境化で成長していくのか?
心配な気分になります。
久しぶりに大好きなマリーンズの試合テレビでみてますが・・いまのところ 残念!!
なぜ愛情を拳で示す必要があるのでしょうか?
不器用だから?
拳でなければ示せない愛情…存在したとしてもそんなもの教育には必要ない。
大相撲はスポーツではない。
日本の伝統芸能。
力士は「近代民主主義における市民」とは異なる身分です。
歌舞伎俳優や天皇と同じ部類に入ります。
よって、暴力はあり。
子供が間違いを起こせば、「言って聞かされる」
それでもわからなければ「痛い目にあう」
みんなそのように大きくなってきたはずです。
暴力は当然、公にはNGです。そんなことは誰でもわかっている。
大人が綺麗ごとだけ言えば言うだけ、子供がだらしなくなる。。
このスレでだけでもそうはっきり思えてしまう。
いつも読ませていただくばかりでコメントしたことはないのですが、
いち高校野球ファンとして一言。
高校野球の一番の特徴として、スポーツ自体が目的なのでなく、
「スポーツを通じた心身の教育」というコンセプトがあるからなのでしょうね。
開閉開式のおエライさんの挨拶を聞いていてもわかります。
だから、強ければいいというものではなくて、強くなる過程も大切で、
少年犯罪の温床ともなる生徒自身の犯罪や暴力には敏感になるべきだし、
教師の暴力についても、子どもの権利という観点から教育現場での体罰をタブーとする
最近の風潮は野球部であっても同じだというのが高野連の考え方なのでしょう。
ある意味、青少年を取り巻く最近の流れを反映しているのかもしれません。
その是非は別としてですが。
どうもお邪魔いたしました。
>大人が綺麗ごとだけ言えば言うだけ、子供がだらしなくなる。
まさにその通りで、「愛情があれば暴力が許される」という綺麗ごとがまかり通り、大人は自分を正当化している、信用できない、という風潮が広がり、子供達も同じような大人になるという悪循環になっていると思います。
ガンジーではありませんが、非暴力にこだわるという勇気を持つことが大切なのですよね。
教育機関での暴力など、どんな理由であれ、許されるはずがなく、愛情があろうがなかろうが、暴力をふるってしまう教員は、教育者としての才能がないから、やめさせるしかありません。ほっておけば、最後は生徒を殺してしまうでしょうから。これは極端な話ではなく、現実にいくらでも起こっています。たいていの場合、殺人罪はまぬがれていますが。
相撲部屋で暴力が許されるのは、そこが親方と力士の運命共同体であり、とにかく強くならなければ、親方も力士も飯の食い上げで、廃業するしかありません。
親方や先輩力士は、強くするために必要だから殴っているので、愛情がどうのという問題ではありません。殴られても強くならないような力士は、なるべく早くやめたほうが、社会復帰が容易ですから、やはり本人ためにもなるのでしょう。もちろん、制度が変わればその限りではありません。
プロ野球では、球団と選手は通常の雇用関係どころか、選手一人一人が個人事業主ということですから、暴力など介在する余地がありません。長島監督などは、よく選手を殴っていたようですが、これは勘違いと言うものです。
大相撲の師弟関係の場合、絶対的な上下関係はありますが、弟子が相撲をやめると一社会人同士の関係性の戻ります。師弟の関係は双方の合意に基づくものです。
野球部員が野球部をやめても学生です。野球部に入部したのは本人の意思によるものでしょうが、教師と学生という関係性は必ずしも当人が積極的に獲得したものでなく不可避的なものです。
そのような二重の優位性の上で暴力など横暴な行為を行うと世間の反感を買いやすいかも知れません。
大相撲も中学校を卒業して入門してくる人も多くいるでしょうから、必ずしも一般的に社会人と呼ばれる年齢に達していない人もいるかもしれませんが、積極的に自らの意思で選択し職業としてのトレーニングを受けていると世間からは認識されているのでしょう。
先の方もプロ野球に触れていますが、野球やアメフトなどの西洋型スポーツでは「個人」が最低単位であり、「部屋」をそれとする相撲では「部屋」内部のことはあまり問題にならない空気がただよっているように思われます。舌戦でメディアをにぎわしている部屋もありますが(笑)
んーと、私は中国武術を習ってるのですが、先生は自分には非常に厳しい練習を課すにもかかわらず、門下生に対しては自主性にまかせ、無理矢理やらせるようなことはしません。
「厳しい練習をさせないのですか?」と以前質問したところ、
「みんなが戦争に行かなきゃならないはめになったらやらせるw」とお答えになりました。
つまり、なんとしても技能を短期間に急激に向上させる必要があり、そうでなければ命の危険すらあるという状況下なら、「やらなきゃならないこと」ってのがあるわけですね。
軍隊とかはそうでしょう。
もしかしたら、大相撲もそうなのかもしれません。
で、「高校野球」ってのは果たしてそういうものなのか?というところが争点なのではないかと。
殴る方にも殴られる方にも、何かしら問題はあるということでは?
非暴力って、体育会系にはあり得ない思想だね。まあ暴力はしないにこしたことはないけど、そういう奴は誰かが殴られてても見て見ぬ振りする奴ばっかだよ。と思っております。
子供のしつけに体罰は絶対必要。現在、学校教育で体罰が禁止されていることもあって高野連も追随している。国を滅ぼす日教組的価値観を葬るべきときが来ていると思います
上記「パ」さんに賛成です。
誰かが相撲部屋は運命共同体と言っておられたが、学校経営だって
特に、高校野球を短期的な売名前略と位置付けている私立高校なんて
教諭と生徒はまさに運命共同体であることをお忘れになっていないか?
竹刀でたたく。
この一部分のみを見ていると当然暴力に見える。
たぶん、「しごき」的な暴力もあると思うが、全てが暴力だけではない。
技術ではなく技能を習得するためには、科学的な合理性のみを追求していては、習得できない。
(それならば全員がチャンピオンになれる!、なってしまう。)
相撲のような身体を中心とした技能を習得するためには、何千回という技の繰り返しが必要。何千回と
繰り返すうちに自然に無駄なものが削ぎ落とされて自分の型が完成する。意識がない中で、意識が薄れ
ていく中で繰り返し行うことは技能を習得する上で必要な要素。また動きの中の悪い部分を「認知」する
上で「たたく」ことが必要になることもある。
そう、スポーツは科学に頼る領域と非科学的であるが「繰り返しに」頼る領域がある。当然両方とも必要。
一部を見て判断することは非常に危険ではないのだろうか?
全体を見て判断することが、いじめ、しごき、稽古、練習を判断することになると思う。
暴力と判断する前に、現象をみる我々の目をもっとスキルアップしないと情報に迷わされるのではないの
か……