本日、人から聞いた話。
東京高裁でブルドックソースの買収防衛策に関する決定を出した裁判長は、その昔、『東スポの記事なんて誰も信じないから、名誉毀損の損害は発生しない』、という判決を出したことがある。
(80へぇ)
手元の資料では裁判官のお名前までは確認できなかったので違っていたら教えていただければと思いますが、確かに、平成4年9月24日の東京地裁の判決に以下のようなものがあります。
本件記事は昭和六一年三月二五日付東京スポーツ紙の「△△△(注:被告の有名芸能レポーター個人名)の芸能特捜リポート」と題する連載記事として掲載されたものである。右記事は当時いわゆるロス疑惑事件で社会の関心を集めていた原告の東京拘置所内での行動を取り上げたものであり、被告△△の文責で「○○○○(注:原告の個人名)差し入れ品横流しで特別待遇」との見出しを付し、原告が東京拘置所内で差し入れのチョコレートを看守の目を盗んで巧妙に他の収容者に分け与えているなどの内容を記載したものである。 (中略)
四 争点に対する判断
(中略)他方、被告△△のリポート記事の類は社会的事象を専ら読者の世俗的関心を引くようにおもしろおかしく書き立てるものであり、東京スポーツの本件記事欄もそのような記事を掲載するものであるとの世人の評価が定着しているものであって、読者は右欄の記事を真実であるかどうかなどには関心がなく、専ら通俗的な興味をそそる娯楽記事として一読しているのが衆人の認めるところである。(中略)
もっとも、本件記事が名誉毀損にわたるものではないとしても、思わせぶりな前記見出しの掲げ方とともに、被告らにおもしろおかしく前記のような記事として取り上げられたこと自体が原告にとって不快なものであろうことは推認できないではない。しかし、当時の原告の置かれた状況並びに世人から寄せられていた関心の高さとその性質及びそのような関心を寄せられたとしてもやむを得ない状況にあったこと、右記事から既に六年以上が経過し、右記事自体の陳腐さが明らかであること等の諸事情に照らすと、右記事の掲載に損害賠償をもってするほどの違法があるものとも認められない。
3 よって、原告の本訴請求はその余について判断するまでもなく、いずれも理由がないものというべきである。
当然、裁判官が勝手に東スポの記事の性質について判断したわけではなく、東スポ側が自分で、「うちの記事なんて誰も信じてない」と主張したからこういう判決になったんではないかと推測いたします。
ちなみに、翌年の8月末に東京高裁では、「娯楽性の高さによって記事が社会的評価を低下させたかどうかの結論は左右されない」と、原告側逆転勝訴で、東スポ側が10万円の支払いを命じられています。
これ、コミュニケーション論としてもなかなか興味深いお話かと思います。
(追記:ふつうは、「うちの記事なんて誰も信じていない」ではなく、表現の自由等の観点から争うと思うんですが・・・ということで。)
当時はこうしたことはマスコミしか関係ないお話だったかも知れませんが、「IT革命」のおかげで今やブログを書いている人は山ほどいらっしゃるわけで、(カッパとか宇宙人の「東スポ」ですら・・・と考えると)、「ブログだから何書いても許されるわけではない」という極めてあたりまえなことを肝に銘ずるのに役立つお話かも知れません。
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ところで、ブルドックソースの買収防衛策の最高裁の判断はいつごろ出るんでしたっけ?
(追記、まだ始まってもいなかった・・・。[次のエントリご参照。])
(ではまた。)
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つまり、この方は、効率的に仕事をこなすために、自分では考えずに、勝つ側の主張をそのまま書くということなのでしょうか。だから、それぞれの表現に深い意味はない、ということなのでしょうか。
今日気になったもの 「ブルドックソースと東スポ」
ブルドックソースと東スポ
本日、人から聞いた話。
東京高裁でブルドックソースの買収防衛策に関する決定を出した裁判長は、その昔、『東ス…
いえ、そういう意味じゃなくて、裁判所は、ドラマの「遠山の金さん」のように自分で証拠まで見つけてくるのではなく、当事者の提出する証拠にもとづいて検討するので、そういう証拠が出てきたんでしょうね、というくらいの意味でございます。
東スポの記事、以前読みました。自ら誰も信じないと言ってしまう潔さ?にビックリした記憶があります。
今でも彼等はそのように思っているのでしょうか?それは紙面の全て?どこか一部なのか?興味ありますね。ぜひ、聞いてみてください(笑)。
私は、この判決をもらって東スポが怒った(記事に信用性がないと書かれたことに不服があるが、結論として勝訴しているので控訴したくてもできない)、と聞いたことがあります。
ただ、都市伝説かも。
民事訴訟では、裁判官は自ら積極的に真実を発見するのではなく、両者の言い分の範囲で勝ち負けを決めることしかやってはいけないという「弁論主義」なる大原則がありますが、もしかすると非常に大胆な裁判官なのかもしれません。(それとも、弁護士の戦術?)
「衆人の認めるところである」との箇所が香ばしいですね。時間が空けばちょっと調べてみようと思います。
大先生にお調べいただくなんておそれ多いですが・・・なにかわかりましたらご教示いただければ幸いです。:-)
ではでは。