今回号の「旬刊商事法務」の特集は、昨年12月に施行になった新TOB規制について。
相当TOBに詳しい弁護士さんに伺っても、「細かい部分はよーわからん」とおっしゃるほどややこしい規則になったわけですが、もともと3分の1を取得する際になぜ強制的にTOBをしなればならないのかという「思想」はなさそうなのに、規制を抜ける裏技を駆使するやつがいるので、とりあえずそれにパッチを当てるために規制を積み重ねているというんではないかというのが、率直な感想であります。
で、今回の改正で「抜け穴」が完全にふさがれたかというと、特集の論文にもあるとおり、まだ、グレーなゾーンやTOB規制を抜けるウラワザはいろいろ考えられるわけで、いたちごっこが終わったとは言えなさそう。
一方で、TOB規制が複雑になると、(個別の事例の判定は なんとかできても)、株式を購入しようとした場合の「ストラテジー」をイメージするのが非常に大変になります。(先に、ブロックである程度の株式を買っておいたほうがいいのか、最初からTOBするのか、第三者割当を受けるのか、市場で買い付けるのか、等。)
イメージがわきにくいと、マクロ経済的に見た取引量は減少するわけで、それは社会全体にとってみていいことなんでしょうか。
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日本は、昔からルールはざっくりつくっておいて、優秀な人が全体を考えてそれを運用するというノリでやって来たかと思いますが、社会が複雑化して優秀な人でも全体を見回すことが困難になり、ルールを定めるから各自が勝手にやってちょうだいという「市場型社会」または「法化社会」に変わらざるを得なくなってきています。
しかし、国民性として根が真面目なので、「ルールを設定してそれを守ろう」という流れになってくると、ルールだけが(そもそもの「ルールの目的」を離れて)一人歩きするし、ルールに抵触する可能性がちょっとでもある場合に取引が行われなくなっちゃうし、ルールにちょっとでも形式的に抵触するやつがいると必要以上にそれをぶったたくことになっちゃう気がします。
(結果として、福井総裁の村上ファンド問題や、柳沢発言、不二家、過剰演出問題など、「確かに褒められた話じゃないが、そこまで叩かないとだめ?」という事件が頻発。)
ということで、(「欧米か!」と言われるかと思いますが)、ここで、「法化社会」の先輩である欧米社会の基盤となっているキリスト教(というか、イエスの言動)と、その「ルール」と「その運用」の考え方について考えてみたいと思います。
イエスの伝記と法令順守
新約聖書を読むと、イエスの伝記に相当する最初の四つの福音書のかなりの部分は、「ファリサイ派」や「律法学者」などの既存勢力が、イエスたちに、「おまえら、法令順守してないじゃん」というインネンをつけてくるのに対して、イエスが「重要なのは本質だ」と切り返す、というエピソードでなりたってます。
例えば。
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9.10〜9.13)
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
人の子は安息日の主なのである。」(マタイ12.1〜12.8)
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12.9〜12.12)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。(中略)しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10.25〜37)
など。(下線部筆者。以下同様。)
キリスト教は欧米を中心に世界人口のかなりのシェアを占めていますが、こうして見てみると、その思想のバックグラウンドの一つは、「法を形式面だけで論じたり、重箱の隅をつついたりしてはいけない。」ということでありましょう。福音書自体、既存の法令解釈の硬直化に異を唱える一人の男が、それによって恨みをかって、適正とは言えない裁判プロセスを経て十字架にかけられるというお話ですし、イエスが死をかけて示したことは「本質を考えた法令解釈をすべきだ」ということだと言っても過言ではないかと思います。
一方で、イエスは「法律は無視していい」とは言ってませんし、むしろまったくその逆で、
わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらのもっとも小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
(マタイ5.17〜5.19)
と、あくまで「コンプラ最重視」のスタンスを打ち出してます。
ということで、こうした宗教的素養が知識人の教養の基礎になっている社会では、「コンプライアンス」と「法令解釈の柔軟性」を両立する力が働く可能性が高いように思われます。
「ローエコ(法と経済学)」なども、「ルールがそもそも『本質』に即しているか?」ということを考えようという発想がないと出てこない概念かも知れません。
「柔軟性」をあまり強調すると、他人の国を攻撃したり、大統領府で不倫しても辞めなくていい、ということにもなるんじゃないかと思うので、バランスは大切かと思いますが、
「重箱の隅を突く形骸化した法令解釈は恥ずべきことだ」という観念が脳の片隅に引っかかってないと、形式的な法令解釈地獄にどこまでも落ちていく気がします。
また、キリスト教社会や経済が領土や範囲を広げていったのも、(よくも悪くも)その法令解釈の柔軟さに負うところが大きいのではないかと思います。
(ではまた。)
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