暗号解読−ロゼッタストーンから量子暗号まで

■インターネット時代に必須の「暗号」の五千年の歴史と理論

「エシュロン」と呼ばれる監視ネットワークが、軍事のみならず、民間の無線やインターネットにおける通信を国際的に傍受している、らしい。
インターネットのメールを使うとき意識している人は少ないと思うが、平文の(暗号化しない)メールは「はがき」のようなもので、実は通信経路の途中にいる人には中身が丸見えなのである。仮に通信する経路のどこかに「スニッファー」と呼ばれる傍受ソフトが設置されていると、個人や企業が利用しているメールやウエブの膨大なやりとりがすべて蓄積され、何かの際に利用されないとも限らないのだ。
インターネットが発達して膨大な量の情報のやりとりがあると、それを解析する諜報機関も大変だろうという気がしてしまうが、真実は逆である。電子的に処理された情報が増えることによって、逆に、システマチックに情報を集め解析することはたやすくなる。「今そこにある危機」という映画の冒頭で、飛び交う携帯電話の電波の中からコンピュータが麻薬王の声紋を自動的に割り出し位置を探し当てる、というシーンがあるが、そうしたことも現実に行われているようだ。真相は一般人には不明だが、日本赤軍の重信房子の逮捕や北朝鮮の金正男氏の入国の発覚も、エシュロンで捕捉された情報に基づく、という説もある。
最近5年間は、コンピューターや携帯電話が大衆化しインターネットが急速に発達した。九十年代後半以降は、軍事だけではなく、企業の産業スパイ対策や個人のプライバシー保護にも暗号が必要な時代に突入したといえよう。


●暗号を取り巻くサスペンス

こうした「陰謀論的な話」が現実に行われているのかどうかについては半信半疑の方も多いだろう。しかし、本書を読むと、諜報活動の歴史というのは、本質的に「どこまで技術的に可能かを秘密にする」歴史であることがよく理解できる。第二次大戦中に英国軍はドイツ軍のエニグマ暗号が解読できていたが、味方を見殺しにしてまでそのことを秘密にした話は有名である。さらに、同じ英国の諜報組織が、RSA社の創設者たちが発明したとされている公開鍵暗号を、より早く開発していた、というエピソードも関係者への取材を行って紹介されており、諜報のために必要な革新的技術は、発明されても、決してすぐには一般人の前には姿を現さない、ということが納得できる。
本書は、一五八六年に、スコットランド女王メアリーが法廷に引き出されるシーンからスタートする。この法廷の審判の鍵は「暗号」である。暗号が解読されずにメアリーは処刑を免れるのか、それとも解読されて処刑されてしまうのか。読む者をぐっと引き込んでおいて、著者は技術的な説明に入っていく。暗号の一般書というのは、古代からの暗号の歴史を説明してきて、近代・現代の暗号の解説するという構成をとるのが通例であり、本書も同様である。本書の特徴は、このパターンを踏襲しながらも、類書を寄せ付けないおもしろさの読み物に仕上がっているところにある。暗号の技術は、勉強してみると非常におもしろいので、書き手としては、技術自体を一所懸命説明しようとしてしまうきらいがある。しかし、著者のサイモン・シンは、前著である「フェルマーの最終定理」と同じく、高度に数学的な技術に深い理解をもちつつもそれに溺れることなく、読者を知的なエンターテイメントに引きずり込むことに徹している。また、著者は、技術そのものの解説もきちっと行いながらも、その技術の陥りやすい罠、技術を使う人間がどういう挙動を取るか、などのドラマに視線を注いでいる。
前述の通り、歴史上、今ほど暗号に対する正しい理解と使用が求められている時代はないといえよう。この暗号の正しい理解のために、最適な一冊と言える。


■この本の目次

はじめに
第1章.スコットランド女王メアリーの暗号
第2章.解読不能の暗号
第3章.暗号機の誕生
第4章.エニグマの解読
第5章.言葉の壁
第6章.アリスとボブは鍵を公開する
第7章.プリティー・グッド・プライバシー
第8章.未来への量子ジャンプ
付録 暗号に挑戦−一万ポンドへの十段階


■著者

Simon Singh
ケンブリッジ大学Ph.D 元BBCプロデューサー。著書に「フェルマーの最終定理」(新潮社)。


■訳者

あおき・かおる
1956年生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院終了。理学博士。翻訳家。訳書に、「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」「フェルマーの最終定理」などがある。