格付けはなぜ下がるのか?—大倒産時代の信用リスク入門

■格付けを題材に日本企業の財務戦略の転換を促す書

雪印をはじめとする食品会社の不正表示や、エンロンの不正会計疑惑など、最近、世間を騒がせている事件には、一つの共通点がある。それは、これらが「思考の分業」に係わる問題である、という点だ。
現代社会は、複雑な分業のネットワークとして発達してきた。分業の範囲は、今やアダム・スミスのイメージしたような「モノづくり」だけには限られない。現代社会は極めて複雑なので、「考えること」についてもかなりの部分を分業せざるを得ないのである。注意する必要があるのは、思考代行の専業者は寡占や独占になることが多いことと、その利用は「思考停止」と表裏一体であること、である。「国が関係してるから」「あの高級ブランドだから」「あの監査法人が監査しているから」「あのアナリストが推奨しているから」というような判断は、根拠を考えて使わないと非常に危うい。

格付け会社も、企業や債券の信用リスクについて、思考の分業を受け持つ存在である。忙しい投資家は自分ですべての企業の返済能力を査定することは難しい。複雑で多岐にわたる企業の活動を、単純な記号に集約することで、チェックのコストは大いに低減する。問題は、思考停止の度合いが高まると、記号が一人歩きする点であろう。財務大臣から一般企業まで「格付け会社、けしからん!」とお怒りの向きも多いが、怒ってもしょうがない。本業の領域で「うちはいい製品を作っているのに、お客が理解してくれない!」と怒る経営者はいない。マーケティングやブランディングを通じて顧客に価値を認めてもらってはじめてビジネスだということは十分理解されているのだ。同様に、財務面においても、お客である投資家(及びその分業先である格付け機関やアナリスト)に自社の価値やリスクを理解してもらえて始めて、経営と言えるはずである。


●デットIRに目をむけよ

本書は、格付け会社ムーディーズで第一線のアナリストとして活躍した著者が、信用リスクと格付けについてわかりやすく解説した本である。
著者は、日本は市場メカニズムを支えるインフラ自体がまだ非常に未成熟であり、現在が一種の過渡期である点を指摘する。従来存在した適債基準が撤廃され、社債が自由なリスク・リターンの時代に突入したのは、なんと一九九六年になってからであり、信用リスクについて考え始めた歴史が日本ではまだ決定的に短いのである。企業がデット(Debt=負債)で資金調達するのは、銀行からの借り入れがほとんどであり、日本のデットの市場は、株式市場に比べても、はるかに市場規模が小さい。信用リスク判定のノウハウも銀行以外にはほとんど存在しなかったし、市場のエージェントであるべき格付けのアナリストも、まだ玉石混交であると指摘する。

こうした歴史と現状を踏まえたうえで、著者は、「市場」に対応する方法を就職の面接に例えてわかりやすく解説している。つまり、いくら実態がいい企業であったとしても、トップが企業戦略についてあまり考えたことが無かったり、考えていてもそれをうまく「面接官」に伝えられないのでは意味が無いということである。

このため、著者は企業が「デットIR」について、もっと目を向けるべきだと提唱する。本書では、債券の投資家は「夢」よりも元本の返済可能性に重きを置くなど、株式の投資家向けIRとの違いを明確にし、デット利用のための戦略とIRを行う際の要点を解説している。
日本は従来、財務は銀行任せで、一般企業では資金やリスクについては「思考停止」していた。著者は、単に格付けの解説に止まらずに、こうした現在の過渡期の日本経済の本質を見据え、経営トップ自らがIRの最高責任者として、企業財務と市場との関係を改善することを提唱している。


■この本の目次

まえがき
第1章 信用リスクとは何か
企業の立場から見る信用リスク/激変する環境と信用リスク

第2章 誰が企業の信用リスクを決めるか

銀行/社債市場/格付け会社

第3章 格付け会社は企業の何を見ているか

信用リスクを分析する/ケーススタディ/格付け作業の流れ

第4章 負債と資本のバランスが重要な理由

信用リスクに対処する/信用リスクと調達コスト/戦略構築と情報伝達

第5章 IRの巧拙が命運を分ける
Debt IRとは何か/Debt IR活動の意義/負債調達の特徴
第6章 これからの経営者に必要なもの
環境の変化に対応する/企業価値向上への考え方/財務へ注目する


■著者

松田千恵子
東京外国語大学卒業。仏国立ポンゼ・ショセ国際経営大学院経営学修士(MBA)。株式会社日本長期信用銀行にて国際審査、不動産債権処理、海外営業などを担当後、ムーディーズジャパン株式会社事業会社格付けアナリストとして東京、ニューヨークで活動。2001年より株式会社コーポレートディレクションに参加、マネージングコンサルタントとして企業の経営・財務戦略、IR等を多く手がける。社団法人日本アナリスト協会検定会員。

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天才の栄光と挫折—数学者列伝

■未知の領域にチャレンジする数学者たちの人生にスポットをあてた苦悩と出会いのドラマ

今年は日本人がノーベル物理学賞とノーベル化学賞をダブル受賞することになった。日本人のダブル受賞は史上初で、しかも化学賞は3年連続の受賞である。また、物理学賞を受賞した小柴昌俊氏が「日本人が毎年ノーベル賞をとってもおかしくない」というように、氏の後継者でニュートリノに質量があるという大発見をした戸塚洋二氏など、今後の受賞が期待できる人材もまだまだいるようだ。ここ十年間、日本は縮小均衡ムード一色であるが、そんなムードを吹き飛ばすような快挙である。地に足をつけて着実に生きていくということももちろん大切であるが、新しいものにチャレンジすることをやめてしまったら、社会の進歩は無い。
こうした未知の領域に挑む人々は、一体、どのような人たちで、何故それに取り組もうと思ったのか。また、どんなドラマを経て輝かしい業績を手に入れ、どんな人生の結末を迎えたのだろうか。今回は、科学の中でも最も抽象度の高い数学の領域に注目して、困難な問題にチャレンジした人の人生を垣間見ることのできる本を取り上げることとしたい。
本書は、NHK教育テレビで平成13年から放送された「人間講座」のテキストを大幅に書き替えたものである。著者の藤原正彦氏は、著書「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するなど、その文章力では定評があり、数学者の人生を描くには最も適任の一人である。
子供のころエジソンや野口英世の本を読んで感銘を受けた人は多いだろう。それによって科学者を目指した人も多いと思うが、それは彼らの発明や発見に心動かされたというよりも、未知の領域にチャレンジする彼らの人生に感激したからではないだろうか。数学者の業績を解説している本は多いが、その人生を描いた良書は少ない。本書を開くと、氏の洗練された文章によって、名前しか知らなかった数学者達の人生が、われわれの目の前に、彩り豊かに展開されていくことになる。


●挑戦者たちの数奇な人生

ただし、天才数学者は、しばしば、常識からはずれた行動や、精神の病に苦しむ人生を送ることが多い。映画化も行われた「ビューティフル・マインド」では、ノーベル経済学賞受賞の数学者ナッシュが、精神病で苦しみ復活する姿が有名になった。本書に登場する数学者でも、決闘で敗れて死んだガロアや、ドイツ軍のエニグマ暗号解読に成功し、世界最初のコンピュータを作ったイギリスのチューリングの人生も目を覆うものがある。数学者の人生というのは、エジソンや野口英世のように「子供に読ませたい」性質のものではないのかも知れない。しかし、本書に書かれているのは、未知の知的領域に挑む人々が苦悩したリアルな人生なのである。

真に革新的なものほど、最初は社会から相手にされない。藤原氏も「数学を読むのは、数学者にとってもエネルギーを要する」ため、「数学ファンから送られた手紙は読むが、その数学部分は一瞥するだけ」だそうだ。「大数学者ガウスでさえ、ノルウェーの弱冠二十二歳の青年アーベルから送られた『五次方程式が解の公式をもたない』という最重要論文を無視した」のである。
こうした、数学者が自分の理論を認めてもらおうとする姿は、ベンチャービジネスが資金調達に苦労している姿に非常によく似ている、と感じた。今までにない斬新さがベンチャービジネスの価値なのだが、斬新であればあるほど、逆に投資家に理解してもらうことが困難になる。
本書を読むと、若き数学者が認められる過程で、その才能を認めてくれる人との偶然の「出会い」が非常に重要な役割を果たしていることがわかる。経営者が画期的ビジネスを認めてくれる投資家と出会うのも、「出会い」が非常に大きく作用する。自分を信じて、あきらめずにぶつかっていく人に、この本をお勧めしたい。


■この本の目次

神の声を求めた人 − アイザック・ニュートン
主君のため、己のため − 関 孝和
パリの混沌に燃ゆ − エヴァリスト・ガロア
アイルランドの情熱 − ウィリアム・ハミルトン
永遠の真理、一瞬の人生 − ソーニャ・コワレフスカヤ
南インドの”魔術師” − シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
国家を救った数学者 − アラン・チューリング
真善美に肉薄した異才 − ヘルマン・ワイル
超難問、三世紀半の激闘 − アンドリュー・ワイルズ
あとがき


■著者

藤原正彦
1943年、旧満州新京生まれ。数学者、エッセイスト。現お茶の水女子大学理学部教授。著書に「若き数学者のアメリカ」、「遥かなるケンブリッジ」、「父の威厳 数学者の意地」等。

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エンロン崩壊の真実

■スターウォーズ世代が作り上げたエンロン社内の「バブルの匂い」を伝える書

ソ連の崩壊によって、社会主義というしくみに説得力が無くなってから、我々は好むと好まざるとに係わらず市場経済というしくみを選択せざるを得なくなっている。米国を中心に、しだいに、市場こそが新しい世界の理想のインフラであるかのように語られるようになってきた。
に、経済学を学んだ人間は市場を信奉していることが多い。破綻した米国のエンロン社の会長兼CEOであったケネス・レイも、大学の学部、修士課程とも経済学を学び、最終的に経済学の博士号を取得した人間だった。エンロンはもともと地味な地方の天然ガス事業会社であったが、彼は「自由な市場」を旗印に、エネルギーや通信の帯域から排ガスの排出権までをオンラインで取引する市場を創設し、エンロンをそうした市場を運営する世界的な会社にまで急拡大させた。また同時に、エンロンは自らがその市場の大口の取引者となっていったのである。
現実の市場は、理想的な経済学の市場とは異なり、取引量(流動性)を供給しないと成立しないし、市場は運営者であるエンロン自身の信用力にも大きく依存する。エンロン破綻の本質は、こうした現実と、高邁な経済学的理想の乖離が生み出す「歪み」が蓄積して引き起こされたものだ、と言えそうだ。


●「バブル」の見分け方

市場経済の最大の欠点の一つは「バブル」が発生してしまうことだろう。バブルが「いかにも怪しい」ものから発生するのならわかりやすいのだが、実際のバブルは、むしろ、知的水準の高い人までもが「これは画期的ですばらしい!」と思うようなものから生まれることが多い。
本書にもあるとおり、エンロンに先立って1998年に破綻したLTCMも、ロバート・マートンと、マイロン・ショールズという二人のノーベル経済学賞受賞者が理論的中核となっていた。同様に、エンロンも、世界的に有名な経済学者であるポール・クルーグマンをはじめとするアドバイザーがついていたし、ハーバードビジネススクールを出てマッキンゼーに勤める一流コンサルタントや、優秀な弁護士、大手監査法人アーサー・アンダーセンの優秀な会計士などが、数百人単位でエンロンに転職し、「自由な市場」というレイ会長のビジョンの下で会社を運営していたのである。「優秀な人がたくさん集まりつつあること」は、信用の証というよりは、バブルのサインと考えられるかも知れない。
日本でもエンロン関係の本が何冊も出版されているが、類書は日本の研究者がエンロン破綻を調査して、主としてその技術的問題点を伝えているものが多い。エンロンのしくみは極めて複雑であり、多数のSPE(特別目的事業体)の会計処理や、政治家への献金、監査法人や証券会社のアナリストの中立性の欠如等、様々な問題点が指摘され、実際に米国議会等での追及も進んでいる。もちろんそれらも重要なのではあるが、多くの人にとっては技術的すぎて興味のわかないものかも知れない。

これに対して本書は、破綻前からエンロンとかかわってきた米国エネルギー産業のコンサルタントが、破綻に至る社内の雰囲気を伝えながら平易に記述しているところが特色である。
バブルの中にいると、人はそれをバブルとは気づかないものだ。エンロンの破綻から一般の人が学ぶべき最も重要なことの一つは、次にこうした「バブリーな」事象に遭遇したときに、その「バブルの匂い」をかぎ分けられるかどうかだろう。

本書に記述された、レイ会長に嫌われると会社に居づらくなる社内の雰囲気や、SPEに「ジェダイ」や「チューイ(チューバッカ)」といったスターウォーズから取った名前を付けていたゲーム感覚の若手達などの数々のエピソードは、徐々にバブル化していったエンロン社内の「空気の匂い」を伝えることに成功しているのではないだろうか。


■この本の目次

第1章 ケネス・レイ会長がジャンク・ボンドで資金調達
第2章 部分的な開示
第3章 スキリングの”ケーススタディー”
第4章 “ランク・アンド・ヤンク”
第5章 マーケット創設を事業化すれば好業績

第6章 エンロン、オンライン事業に乗り出す
第7章 高い代償のブロードバンド
第8章 エンロン、水道事業に参入する
第9章 傲慢から倒産へ
第10章 トップは「買い」を勧め、裏で売る
第11章 エンロンの物語の終焉


■著者

PETER C.FUSARO
カーネギーメロン大卒、タフツ大学国際関係論修士。エネルギー会社向けコンサルティング会社社長を務めるほか、米国エネルギー省アドバイザー、国際エネルギー経済協会ニューヨーク支部会長。著書に「エネルギー・デリバティブの世界」(東洋経済新報社)など。

ROSS M.MILLER
カリフォルニア工科大学卒、ハーバード大学経済学博士。ヒューストン大学、カリフォルニア工科大学、ボストン大学等でファイナンスや経済学を教えた後、GE、投資銀行等でファイナンス関連業務に携わる。


■訳者

橋本 碩也
1947年、三重県生まれ。日本リーダーズダイジェスト社、証券系経済研究所、大手新聞社英字新聞部門等を経て、現在PR会社に勤務。著書、共著に「半導体産業の先を読む」「外国銘柄250社」、翻訳書(監修サポート)に「影響力の代理人」他。

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こんな株式市場に誰がした

■日本の株式市場の「病状」と、その改革の必要性を説く書

小泉政権の政策の基本コンセプトは、政府に頼らない自立的な経済を作ることだったはずだ。政府に頼らないということは「市場」の力をうまく利用することであるから、最も大きな市場の一つである資本市場を改革し、銀行の間接金融から市場を経由する直接金融へのシフトを促すことは政策の柱のはずだった。しかし、特殊法人の民営化などはともかく、同政権が資本市場の改革に力を入れているようには見えない。実際に取られてきた政策も、株式市場が好きになるどころか、逆に目を背けたくなるものばかりである。
資本主義の要が「市場」であることは誰もが認めるところであろう。しかし、「市場」とは何か、どうすれば「いい市場」になるのか、ということになると、政治や経済の専門家でもよく理解していないことが多いし、体系的に研究している人もわずかだ。「市場アレルギー」がある人はともかく、市場の必要性を認めている人の中にも、「市場とは自由放任のこと」で、規制緩和すればすべてが解決すると信じている人が多い。
しかし、問題はそう単純ではない。実際の資本市場は、経済学の教科書に載っている需要・供給曲線が二本引いてあるだけの単純なものではなく、膨大な企業情報を適正に開示させ、その情報を公正に流通させる必要がある複雑なシステムなのである。この複雑さを参加者に意識させないよう、表面的にはシンプルな見かけを作りつつ、背後では、しっかりと公正性や透明性を保つという、一見矛盾したことを行う必要がある。市場の育成は子育てに似ており、親が口出しをせず子供を自由に遊ばせていても、目を離さず「大きな愛」で見守っているのと同様、政策的には大きな度量と見識が必要になる大変難しいことなのである。


●株式市場への政策と病状

本書は、日本経済新聞社の証券部編集委員である筆者が、日本の株式市場の「病状」をレポートした書である。
二つ目に、こうした価値などの説明や投資家との交渉を行う際に、やや技術的な計算を伴う、ということがある。「やや」とはどのくらいかというと「EXCELで四則演算と階乗の計算ができるくらい」だ。笑わないでいただきたい。つまり、その程度の「技術」を食わず嫌いの(特に「文系」の)人というのが多い、ということだ。同様に「ファイナンス」というだけで食わず嫌いになっている技術系の人も多いのである。
本書には、最近の事例を中心として、金融ビッグバン以降の政策や市場の状況が綴られている。本書を読み進めてみると、この五年間の証券市場の変化を振り返ることができる。金融行政は大蔵省から金融庁に移り、数年前では考えられなかった銀行での株式窓販すらすでに解禁されている。証券会社の免許制は撤廃され、オンライン証券会社や銀行系証券会社等の新規参入で、証券業の産業構造は一変した。
タイトルが示すとおり、本書には、改革の成果がなかなか現れないことに対する筆者のもどかしさが貫かれている。変化の渦中にいる筆者としては、的外れな政策や改革のスピードの遅さが苛立たしくてしかたがないのだろう。しかし、一般の読者には、本書を読んでこの五年間の変化の大きさを改めて認識する人も多いのではないだろうか。
米国は、一九七五年以降三〇年近くをかけて、成熟した資本市場を作り上げてきたわけだが、それでも、エンロンに代表される企業会計の不正や、アナリストの中立性が阻害される問題などが山積しており、完全な市場からはほど遠い。日本は、経済環境が最悪の中、自由化と同時に、インターネットの発達によるインパクトまで受けながら、五年間で曲がりなりにもここまで来た。評者も資本市場に対する個別の政策には大いに不満があるが、証券市場は、客観的に見て非常に難しい激動の時代にあることは間違いない。
本書は、今年二月の発行だが、今年に入ってからの事例まで盛り込まれており、速報性も高い。「病状」を訴える本であって、「処方箋」を前面に出した本ではなので、「ではどうすればいいのか」という解答が明確に見えてこないところが、ややすっきりしない読後感となっているが、現在の日本の株式市場の重要な課題を理解し、改革を継続していくことの重要性を認識するのに適した本であろう。


■この本の目次

まえがき
序章 何を間違えたのか
第1章 「株価は、どうにでもなる」
第2章 幻だった金融ビッグバン
第3章 証券税制改革の誤算
第4章誰のための企業会計か
第5章空売り規制の虚実
第6章 アナリストが壊す市場
第7章 株式市場の役割を見直す
第8章 希望の光はどこに


■著者

前田昌孝(まえだ・まさたか)
1957年生まれ・79年東京大学教養学部卒業。日本経済新聞社入社。産業部、神戸支社、証券部、ワシントン支局を経て97年から証券部編集委員。金融・資本市場担当として日経金融新聞に定期コラムを持つほか、日経本紙で随時、解説記事を執筆。著書に「複合デフレ脱却」「投信新時代」(ともに共著)など。

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ついにVCから資金がやって来た!

今回は、ベンチャー企業が投資を受ける場合の投資契約書の内容について見ていくこととしたい。前回まで、設立したばかりのIT系ベンチャー「A株式会社」は、投資資金の獲得のために交渉を重ねてきたが、ついにベンチャーキャピタル「Bファンド」から約5千万円の出資を受ける最終局面に入った。

Bファンドはデューデリジェンスとして、A社の各種議事録などの法的資料や詳細な財務データの精査を行った。A社は技術者集団で財務や法務に強いわけではないので、もちろん細かい帳簿の間違いや、作られているべき資料が抜けているケースなどはあった。しかし、スタートアップしてから間もないベンチャーではそれが普通だというのはBファンドもわかっている。結局、回復不能な重大なミスや問題点はないと判断され、作業はついに、最終的な正式投資契約書の詰めに入った。


●投資契約の内容は?

Bファンドと結んだ最終的な投資契約に定めた事項は、以下のようなものである。まず、前回のとおりA社及びA社主要メンバーは、IPOに向けて最大限努力することがうたわれた。また、毎月、A社がBファンドに財務内容を報告する義務や、Bファンドが取締役会に1名取締役を派遣する権利が明記された。

加えて、Bファンドは、先 買 権(pre-emptive rights)を持つことになった。これは、次回以降の増資やIPOのときに、Bファンドが、今回投資した後の持株比率(34%)を保つだけの投資を次回以降の他の投資家と同じ条件で行うことができる権利である。(Bファンドが投資する権利であって、もちろん、A社が今後も必ず投資を受けられる権利ではない。)

また、Bファンドの共同売却権(co-sale right)も付けられた。A社は原則として株式公開(IPO)を目指すが、仮に将来会社をM&Aで売却するような場合に、Bファンドも株を売却できることを保証する権利だ。これを定めておかないと、会社の経営者であるA社の創業メンバーたちが、売却先と交渉して自分たちだけ株を「売り逃げ」して、Bファンドの行った投資が塩漬けになる可能性があるのだ。


●優先株による投資とは?

また、今回の投資では、Bファンドの希望もあり優先株 (prefered stock) を使うことにした。優先株式とは、普通株式(common stock)に比べて何らかの優先条項が付随している株式のことである。シリコンバレーでは、投資家が優先株を使って投資することは常識だが、日本では従来、優先株を投資に使うことはほとんどなかった。理由の一つは、日本の法律専門家で優先株投資のノウハウがある人が極めて少なかったことである。優先株は非常に膨大な(ことによると何百ページの)ドキュメンテーションを必要とするが、こうした実務に習熟した弁護士の数は従来は非常に少なかった。登記実務についてもそうで、港・渋谷・千代田など都心の法務局出張所であれば登記に応じてくれるが、郊外や地方の出張所にいくと、「やったことがないので・・・」と難色を示されることが多かった。

また、従来の日本の公開前規制では、公開申請期の直前決算期末までに、優先株やワラント・転換社債などを、普通株に行使・転換する必要があり、結局、公開直前の期間、投資家がリスクヘッジの恩恵を被れないという理由も大きかった。しかし、ベンチャー界や専門家からの声が取り入れられて、公開前規制が改正され、2001年9月より直前決算期末を優先株のまま持ち越すことが認めらるようになった。これによって、優先株を使うコストパフォーマンスが相当改善されることとなったのである。

今回、優先株に付けられた権利は、以下の通り、大きく2つある。まず1つめは、希薄化防止(anti-dilution)条項だ。仮に、今回の投資以降の努力もむなしく次のラウンドの投資において、今回より株価(企業価値)が下がってしまった場合、一定の数式にしたがって、優先株から普通株に転換する際の株数を多く調整するものだ。これによって、投資家は、アグレッシブな事業計画に従って高い株価で投資をするリスクを和らげることができる。(図1参照)

図1.希薄化防止条項

こうして、A社とBファンドは投資契約を締結した。その他投資に必要な書類などを準備した後、めでたくA社の増資用の銀行口座(別段預金)に資金が、5100万円払い込まれたのである。

2つめは、清算時の残余財産分配の優先権(liquidation preference)条項だ。会社の営業を続けるのが不可能になった場合、会社を清算して、残りの財産(残余財産)を株主に分配することになる。出資したのは創業者1000万円に対してBファンド5100万円で約1:5の比率だが、投資家は創業者より高い株価で投資をしているので、創業者が普通株式を66%も持っている。優先権が付いていなければ、事業に失敗したにもかかわらず、経営者に残りの財産の2/3を持っていかれてしまうことになる。優先権がついていれば、仮に残余財産が4000万円(投資した5100万円を切る)とすると、すべてBファンドが分配を受けることになり、会社がうまくいかなかったときのリスクを軽減することができるのである。(図2参照)

図2.残余財産の分配

こうして、A社とBファンドは投資契約を締結した。その他投資に必要な書類などを準備した後、めでたくA社の増資用の銀行口座(別段預金)に資金が、5100万円払い込まれたのである。


●なぜ、投資契約が必要なのか?

以上のような投資契約やスキームは、今までの日本では一般的なものとは言いがたかった。前述のように、法的な規制の問題や、こうしたことを行うノウハウや人材の不足の理由もあるが、そもそもこうした契約を結ぶ意味が理解されていなかったというマインドの問題も大きいだろう。今まで解説してきたとおり、こうしたきちんとした投資契約の内容というのは、会社がうまくいかなかったときにどうするかという取り決めが多い。最初に投資をする時というのは、経営者も投資家も多かれ少なかれ「これはいける!」という一種ハイな状態になっているわけで、今までの日本では、そういう時に「失敗したときにはどうしましょうか?」という「縁起でもない話」をするのは、そもそも雰囲気的に難しかったということもあったかも知れない。

しかし、ベンチャーというのは失敗するものなのだ。「絶対に成功するベンチャー」なんて存在しない。米国でも成功したベンチャー企業の影には、数多くの失敗したプロジェクトが存在する。もちろん、経営者と投資家に「この会社を絶対に成功させるぞ!」という気合が不可欠である。「もしかしたら失敗するかもね」というモードでは、成功するわけがない。しかし、スタートアップのベンチャーが成功するのは、技術の他に、社会環境、優秀な人材の参画、上手なマーケティング、ツボを押さえたファイナンスなどが、うまく共鳴しあうことが必要であり、一歩離れたクールな立場から言えば、多くの企業はどれかの要因が欠落して、途中でリングから下りることになるのである。うまくいっているときは契約に多少難があろうと勢いでなんとかなるが、会社がつらい状況に陥ったときこそ契約が大切になる。会社がうまくいかないときに限って、さらにその足を引っ張るように、「言った」「言わない」「話が違う」などの投資にまつわるトラブルが発生するのを、筆者も数多く目撃してきている。経営における失敗というのは、褒めてくれる人はあまりいないが、実はなかなか体験することができない、非常に貴重な「資産」なのだ。その資産を生かして再び新たなことにチャレンジできるようにするためには、つらい時期を速やかに乗り切ることが必要であり、そのために最初から様々なケースを想定した合意事項を文書化しておくことは極めて重要なのである。


●チャレンジする者たちへ

以上、6回にわたって、エクイティを使ったコーポレート・ファイナンスの実務で、どういうことが行われているのか、これからどうなっていくのか、について述べさせていただいた。

第1回でもお話したが、情報通信系のビジネスというのは、エクイティファイナンス(株式を利用した資金調達)と切っても切り離せない関係にある。情報通信系のビジネスが行う「投資」の大半は、パソコンやサーバー、カスタマーセンター、プロモーション、ブランドイメージの構築など、無形で担保にならないものばかりだし、極めて環境変化が激しく3ヶ月先のマーケットも読むのが難しい。そうした事業なので、銀行も資金を貸したがらないし、たとえ貸してくれるとは言われても、期限を切って返済しなければならない資金は、ベンチャー側も怖くてとても借りれない。このため、返済の必要はなく企業価値を高めることで株主に報いるエクイティファイナンスが重要になる。情報通信領域に限らず、今後の世界の成長領域は、貸付よりもエクイティファイナンスが適した事業領域が主流になっていくのは間違いない。
新しいことにチャレンジする者たちよ。こうしたコーポレート・ファイナンスに関する知識は、必ずやあなた方の強力な武器の一つとなってくれるだろう。

※A社ならびにBファンド、その他の投資家に関連する部分のストーリーは記事のために作った例であり、実在の企業・団体などとは関係ありません。

* 投資家が、投資ファンドの出資者に対する説明責任を果たすために、この事業が投資をしてキャピタルゲインを生むものであることを精査するプロセス。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
コンサルファームで、新規事業コンサル、インターネット技術調査などに従事した後、オンライン証券ベンチャーの設立に参画。その後、投資ファンドのパートナーやCFOなどとして、多数のベンチャー企業の現場に関与。2001年7月より現職。
https://www.tez.com/

投資金額や条件をめぐる交渉の舞台裏

先月号では、「A株式会社」が、ベンチャーキャピタル「Bファンド」とのハードなネゴを乗りきり、なんとか投資の口頭での確約(ソフト・コミット)を取り付けるところまで行った。ただし、A社が当初考えていたビジネスの展開は「のんびり成長しすぎ」ということをBファンドに指摘され、実現可能性を検討した上で、より思い切った投資をするビジネスプランに改められた。この修正されたビジネスプラン(抜粋)を見てみよう。(図表1参照)

図表1.A社の企業価値

前回のビジネスプランでは、当初の投資金額を抑えていたため、当初のキャッシュフローのマイナスが少なかったが、今回は、かなり思い切って投資することにしているため、その分、2002年度・2003年度のキャッシュフローのマイナス幅は大きくなっている。しかし、2004年度以降のキャッシュフローは当初案よりも勢いよく増加していくプランになっている。


●「企業価値」の最終決定

2001年12月号でも述べたが、DCF法で現在価値を算出する場合の基本的な考え方は、数式1の通りになる。毎年のキャッシュフロー(Ci)を、一定の割引率(r)で割り引く、というものだ。しかし、実際のビジネスプランにおいては、無限にキャッシュフローを想定しても意味はない。特に、変化の激しいIT系の事業においては来年のこともよくわからないのに、10年も先のキャッシュフローを考えてもほとんど意味がないのは明らかだ。

数式1:

このため、実際には、5年後くらいに事業を売却してそこでキャッシュが入ってくるとみなして企業価値を計算することが多い。この事業を売却したとみなしたときの企業価値を「残余価値(terminal value)」と呼ぶ。残余価値も企業価値であるから、その計算方法にはいろんな考え方があるが、今回の場合、計画の最終年度のキャッシュフローが一定の率で成長していくとして、DCF法と同様の考え方で計算した。(こうすると、最終年度のキャッシュフローを「割引率−成長率」で割るというシンプルな式で表せる。数式2参照。) A社案では、当初この最終年度以降のキャッシュフローの増加率を15%としていたが、Bファンドからこれは高すぎだと指摘されて10%に削られることになった。

数式2:

注:Cmは、最終年度のキャッシュフローrは、割引率。gは最終年度以降のキャッシュフローの成長率。

毎年のキャッシュフローを割引く割引率としては、50%が使われた。これは、現在の金利水準より相当高い、かなりリスクを見込んだ率である。A社は、スタートアップしたばかりで現在はまだサービスも開始していないので、本当に計画通りいくのかどうかリスクが高い、と言われればその通りではある。悔しければ、何らかの形で自分たちで資金を工面して、より企業としての実態を作ってからVC(ベンチャーキャピタル)に話を持ち込むしかない。

しかし、A社スタッフの場合、そもそも、お金持ちの叔父さんがいるわけでも自分たちが何千万円も貯金があるわけでもないのでVC回りをしてきたわけである。しかし、数年前まではスタートアップの企業に資金を提供するVCなど日本にはなかったし、出しても「額面」での投資がほとんどで、とても1億円以上の評価をしてくれるような土壌はなかった。ITバブル崩壊などと言われて投資が過度に冷え込んでいる現在の環境をも考え合わせれば、これでもかなり好条件とも言える。また、Bファンドが、中身もわからずただ企業価値のディスカウントをネゴってくるVCだったとしたら、A社スタッフも、自分の会社を安く見られたという寂しさや悔しさが残ったかも知れないが、Bファンドの態度は一貫して、理由を示しながら条件を提示し、「いっしょに経営をしていこう」というポジティブな意欲の感じられるものだった。このため、A社スタッフも多少不満な面があっても最終的には説得されることとなった。

実は、ベンチャーファンド自体も、通常、自己資金はほんの一部で、大半は投資家から集めてきた資金である。ファンドの運営をやっている会社(「GP」(=General Partnerの略)などと呼ばれる)が投資を決める際には、自分の直感やセンスも重要ではあるが、ファンドに出資してくれた投資家への説明責任(accountability)も欠かすことができない。つまり、ファンド運営者の場合、ファンドへの出資者に説明できない行動は取れないし、取ってはならないのだ。だから、VCがこちらに好感を持ってくれているなとは思っても、それで交渉が甘くなるということはなく、条件はあくまで合理的に決まると考えておいたほうがいいだろう。


●「LOI」を締結!

投資を受けるときに注意が必要なのは、企業価値には、投資を受ける前の価値(pre-money)と、投資を受けた後の価値(post-money)がある、ということだ。「投資を受けた後の価値」=「投資を受ける前の価値」+「投資金額」である。図表1でBファンドが投資をするといった修正後の1.5億円は「post」の価値だ。5千万円投資を受けるとすると、preでは約1億円の企業評価になる。

A社スタッフは、当初、なるべく外部株主比率を下げたいという思いから、pre1.5億円で評価して、約5000万円投資して25%の出資比率でどうか、と食い下がっていた。しかし、Bファンド側は、今回のビジネスプランは、Bファンド側も大口の取引先を紹介するなど、出資以外のバリューをつける「共同経営者」的な協力をすることや、約5000万円の投資をすることによってはじめてこのビジネスプランが可能になることなどから、あくまで投資「後」で1.5億円の価値であると主張した。最終的には、修正したビジネスプランに基づき、投資後の企業価値1.53億円と見て、投資後の発行済株式の約34%、5100万円を出資してもらうことになった。

もちろん、この5100万円だけでIPOまで資金を持たすというのはかなりきつい。Bファンドのパートナーは、これからの事業の進捗を見て、追加投資を考えよう、と言ってくれた。「この目標を達成したら次の投資」と、事業計画上の目標(マイルストーン)を定めて、小分けで投資を行っていく、いわゆる「マイルストーン投資」というやつだ。Bファンドとのディスカッションであがった課題の一つは、A社が技術には絶対の自信を持つ技術者集団ではあるが、財務やマーケティングの経験を持つ担当者が一人もいない、ということだ。そこでBファンドから設定された目標は、この業界で活躍できる実力あるマーケティング担当者を連れてくること、営業が軌道にのってきたら、IPOまで引っ張って行ける専任の財務担当者を連れてくることだった。もちろん、売上高や顧客数の目標を達成することも盛り込まれている。

こうしたマイルストーン投資はA社スタッフ側にとってもありがたい。もし、A社が順調に成長していくとすれば、後になればなるほど企業価値はあがるはずだ。体制が整わない段階で大量の資金を投入してしまうと、株式の持分を大量に外部株主に放出しなければならないが、成長に合わせて資金調達ができれば、こうした持株比率のバランスをうまくとりながら資金調達が行えることになる。

最終的に、BファンドはA社に、こうした内容を記入したLOIを手渡した。


●LOIの内容は?

では、そのLOIの内容はどんなものだったのだろうか?まず、このLOIは守秘義務などの条項を除いて法的拘束力がない(non-bindingである)ことが定められている。つまり、投資するかどうかはこの後詳細にA社の内容を見るデューデリジェンスの結果を見てから決めるということである。また、ディスカッションの結果決まった投資金額、発行株式数、などの条件も書かれている。

さらに重要な点としては、EXITの目標が定められたことがある。今回は、A社は、IPOに向けて最大限努力することがうたわれた。
経営としては必ずしも不調ではないがIPOもバイアウトもしないという状況を、投資関係者は「living dead(生ける屍)」と呼んで敬遠する。会社の経営者や従業員は、毎月食っていければそれでいいとも言えるが、投資家は資金がキャピタルゲイン付きで返ってくるのでなければ投資した意味がない。実は、この2つの状態には大きな隔たりがあり、会社側と投資家で大きく利害が分かれるところだ。この条件はBファンドの強い希望によって盛り込まれた。
この他にも、先買権(pre-emptive rights)や、共同売却権(co-sale right)、希薄化防止(anti-dilution)清算時の残余財産分配の優先権(liquidation preference)などという、A社メンバーが聞きなれない条項が付けられた。これらの条件は、日本の今までの投資慣行ではあまり盛り込まれなかった条件であり注意が必要であるため、次回以降じっくり見ていくことにしよう。

※A社ならびにBファンド、その他の投資家に関連する部分のストーリーは記事のために作った例であり、実在の企業・団体などとは関係ありません。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
コンサルファームで、新規事業コンサル、インターネット技術調査などに従事した後、オンライン証券ベンチャーの設立に参画。その後、投資ファンドのパートナーやCFOなどとして、多数のベンチャー企業の現場に関与。2001年7月より現職。
https://www.tez.com/

投資条件をめぐる「ハードネゴ」を乗り切れ

ベンチャー企業が投資家から出資を受ける際の「交渉」がどのようなものなのかについて、その実態はほとんど知られていない。本連載では先月号まで2回にわたり、スタートしたばかりのあなたの会社「A株式会社」を例に、資金調達に取り組むベンチャーの姿を追ってきた。引き続き今月は、A社と投資家とで繰り広げられるハードな交渉の詳細を見ていくことにしたい。こうした投資家との交渉ノウハウは起業家や起業予備軍必須の知識である。

さて、A社のメンバーは、外資系や金融機関系など、さまざまなカテゴリーのVCを精力的に訪問した。まずは金融機関系のVCを何社かまわったが、担当者レベルの反応が悪く話が先に進まなかった。その後も金融機関系のVCではいずれも最終意思決定者に会えなかった。A社の力不足も否めないが、足を運んだ金融機関系VCは、1999年から2000年初めにかけての国内外IT系企業への投資でかなりの損を重ねており、「アツモノに懲りている」という印象だった。

また、外資系のVCでは投資条件で合意できなかった。A社の事業に対する理解度は高いと感じたし、興味も持ってくれたのだが、面談した外資系VCもインターネットブーム期の投資で痛手を負っているようで、日本からの撤退を準備しているVCもあった。米国のいわゆるITバブル崩壊の影響は大きいようだ。

さらに、何人かのエンジェルと呼ばれる人にも会ってみた。感触のいい人からは「君たちの事業はよくわからないが、金は出せるかもしれないよ」といった反応が得られた。しかし、株主になってもらう人には自分たちの事業への理解が欠かせないと考えるA社のメンバーには、こうしたエンジェルからの出資は受け入れられなかった。

結局、スタートアップ企業への投資を中心に手掛ける独立系のVCに資金を出してもらうことに決めた。ここでは名前を「Bファンド」としよう。Bファンドは数人で運営している小規模なVCで話が進むのも早かった。Bファンドのパートナー(*)はA社が取り組もうとしている分野に太い人脈を持ち、取引先の紹介など資金以外のメリットも期待できる。このことがA社の意思を固めさせた。


●ハードなネゴシエーション

ベンチャーと投資家の交渉は、どのように行われるのだろうか。引き続きA社を例に見ていこう。まずA社は、Bファンドのスタッフの前で自分たちのビジネスプランのプレゼンテーションを行った。A社メンバーは、それまでにも10社以上のVCでプレゼンを行ってきたこともあり、「前フリで相手をぐっと引き込んで」「ここでドンと盛り上げて」と、プレゼンのコツは完全に身に付けていた。A社が手掛けるビジネスに詳しいBファンドのメンバーは、A社が売り込みたいポイントをすばやく理解して、うなずいたり「ほう」という表情をしたりしていた。ミュージシャンが観客のノリがいいといい演奏ができるように、プレゼンテーションでも聞き手が理解して聞いてくれるといいプレゼンができるものだ。今回は、A社メンバーは自分たちの力を出し切った最高のプレゼンができたと思った。

しかし、投資家との交渉においてはプレゼンテーションの反応が好かったからといって安心してはいけない。A社の場合も、喜んだのもつかの間、プレゼン終了後にVCから嵐のような質問が待っていた。業界に詳しいだけに、ツボを突いた質問が次々に襲ってくる。他のVCでは適当にごまかしたあまり触れられたくないポイントについても、見逃さずに鋭く切り込んでくる。こうしてハードな交渉を重ねた結果、A社が当初持ち込んだビジネスプランはかなり修正されることになった。当初のビジネスプランでは、投資はなるべく控えてできるだけ早く損益分岐点(*)に持って行き、人員も少人数のままゆっくり着実に成長していこうと考えていたが、Bファンドのパートナーに「このままでは投資できない」と言われたのである。A社の取り組もうとしている事業は、業界の注目度が高く競争も激しいため、のんびり成長していたのでは競合企業に追い抜かれてしまう。思い切って社員数を増やし、より高い売り上げ目標を達成できる計画でなければ、投資はできないというわけだ。

しかし、Bファンドの言うことを鵜呑みにして、できないことを約束するわけにはいかない。A社メンバーがこの宿題を会社に持ち帰って議論を繰り返した結果、Bファンドが紹介してくれるという大手企業との提携など、新たな営業上の施策が実現すればより高い目標が達成できそうだという強い確信が得られた。このため、これらを修正した新しいビジネスプランに変更することで、両者は合意に至った。

今回の事例のように、投資家とこのようにハードな交渉をして、その過程でビジネスモデルを変更することは、日本ではまだ多いとはいえないが、シリコンバレーでは少なくない。


●ベンチャーの資本政策

A社の場合、この変更は資本政策面からもプラスだった。資本政策というのは「どのような株主に、いくらの株価で、何株の株式を割り当てるか」という計画である。当面、資金の心配をせずに、まとまった開発やプロモーションを行っていくには、5,000万円くらいの資金があるとありがたい。一方、IPO(株式公開)まで考えた場合、現時点での外部株主の持株比率は、どうしても全体の3分の1以下に抑えたい。そこから逆算すると、5,000万円の外部資金を入れるにはA社の現在の企業価値が1.5億円はないと厳しい。(*)当初の事業計画ではこれに届かない。

日本で株式を公開する際は、社長をはじめとする安定株主の持株比率が高いことが求められる。逆に、キャピタルゲインを狙っているVCのような外部の投資家は安定株主とみなされず、あまり高い持株比率になることができない。日本の株式市場は、特にベンチャーなどの小型株の取引について、米国に比べて一般投資家の参加が少ないために流動性が低い(取引量が少ない)。このため、もしVCが大量に株式を持っていた場合、公開後に大株主であるVCが株を売りに出すと、その大量の株式の引き取り手が少ないため、株価が下落すると考えられている。米国では、未公開の段階でVCが高い持株比率であっても、公開後にVCから徐々にバトンタッチして株を譲り受ける存在として、機関投資家(投資信託や年金などを運用する主体)の役割が大きい。しかし日本では、そうした機関がベンチャーの株式を吸収する機能が弱いので、ちょっと株が放出されると株価が崩れる可能性が出てくるわけだ。

株式公開時は、VCの機能を持つ証券会社が株式を引き受けて、自社の顧客にその株式を割り当てて(販売して)いくが、証券会社としても自社の売った株の値段が下がって自分の顧客に損をさせるのは非常に困る。そのため、安定した株価の形成を望む証券会社からは「社長が筆頭株主でないと……」「やはり会社の役員が5割以上株式を持っていたほうが……」といった発言が出てくることになる。こうした状況は、これから証券市場が発達していけば徐々に解消されてくるはずだが、残念ながら当面は社内役員など安定株主の持株比率が高い会社でないと公開が難しい現状が続きそうだ。このため、A社が未公開の段階であと1回発行済株式総数の10パーセント強の資金調達を行い、株式公開時にさらに10パーセント程度の株式を放出すると考えたとき、現時点で全株式の3分の2くらいは創業メンバーで持っておきたいのである。(「図表1参照)

図表1.資本政策の一例

次回からは、ビジネスプランに大筋で合意したA社とBファンドが、どのようなLOIを締結し、最終的にA社がどのような金額の投資を受けることになったかについて見ていこう。

※A社ならびにBファンドその他の投資家に関連する部分のストーリーは記事のために作った例であり、実在の企業・団体等とは関係ありません。

「損益分岐点」…収益と費用が同じになる操業レベル。

「企業評価1.5億円」=5千万円÷(1/3)
5千万円が3分の1だとすると、全体の企業価値は1.5億円必要、となる。

「パートナー」
米国のVCは、従来、出資者であり経営者であるパートナーが運営するpartnershipとよばれる日本の組合や合名会社に似た無限責任の組織形態がファンドを運営することが多かった。現在ではアメリカのVCも有限責任の「LLC (Limited Liability Company) 」と呼ばれる組織形態をとることが多くなったし、日本でも株式会社形態をとることも多いが、最近設立されたVCの中には代表者について「パートナー」という呼称を取るところがあるため、この例ではパートナーという呼称をとった。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
コンサルファームで、新規事業コンサル、インターネット技術調査などに従事した後、オンライン証券ベンチャーの設立に参画。その後、投資ファンドのパートナーやCFOなどとして、多数のベンチャー企業の現場に関与。2001年7月より現職。
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ベンチャーのための”対投資家”交渉術

2001年10月より、改正商法が施行されて、額面株式・無額面株式の区別が無くなり、設立時より株式が1株1円でも発行できるようになるなど、シリコンバレー式の投資スキームが導入しやすい環境が整ってきた。最低資本金制度などは、そのままなので、まったく同じとはいかないが、今後は、日本の投資家の行動パターンや実務も、よりシリコンバレー的になっていくと考えられる。

第2回「ベンチャー企業の”価値”はこうして計る」では、ベンチャー企業の企業価値算定の考え方について述べた。登場したあなたの会社A社は、現在、株式による資金調達を考えている。今回は、前回の続きとして、A社が投資家を探して交渉するプロセスを見て行くこととしたい。


●タイプ別投資家の行動パターン

日本の投資家には以下のようなタイプがある。もちろん、それぞれの投資家毎に個性があるので、このカテゴリー分けはあくまで目安として考えていただきたい。

第一のカテゴリーは、外資系ベンチャーキャピタルだ。(以下、ベンチャーキャピタルを「VC」と省略する。)外資系VCは、教科書的なセオリーに沿った投資を行うことが多い。つまり、理論的な企業価値算定を行い、後述のような投資のプロセスをきちっと踏んで、投資後は「ハンズオン」(注)することを志向している。ただし、ファンドサイズが数百億円以上のVCの場合、管理する社数が多くなりすぎるとハンズオンが手薄になるので、数千万円の「細かい」投資は嫌がることが多い。そうしたVCの志向しているのは数億円から数十億円の投資であるため、投資を受ける側も「超大型新人」である必要がある。

次に、今回のネットビジネスのブーム以前から投資活動を行ってきた日本の老舗VCがある。国内証券会社系に大手が多いが、他も銀行系損保系など、金融機関系が多い。従来は、設立したばかりの企業に投資することはほとんどなかったが、今回のネットブームでは、そうしたスタートアップへの投資も積極的に行うようになってきた。銀行系など一部は、金額も上限1千万円程度で、リード(メイン)が決まらないと投資しないところもあるので、そういうところに対してはリードの投資家を先に決めないといけない。

三番目に、インキュベーターや事業会社系など、今回のネットブーム前後に設立された新興系のVCがある。これも、会社によって個性はまちまちだが、外資系の投資パターンを取り入れつつ、日本的な要素も入っている、といった感じか。今回のネットブームで、最も積極的に投資を行ったカテゴリーだ。

最後に、「エンジェル」と呼ばれる投資家がいる。事業オーナーなど、個人のお金持ちの投資家だ。会社に興味を持つかどうかはまさにその人の個性で決まる。

具体的なVC(エンジェル以外)については、例えば、東洋経済新報社の「ベンチャークラブ」という雑誌でVCの特集が組まれ、一覧が載っている(今年は2001年10月号
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/vc/mokuji/v200110.html) ので、参考にするといいだろう。
(注:現在同誌は廃刊している。)


図表1.DCFによる企業価値


●投資を受けるまでのプロセス

投資を受けるまでのプロセスも、VCによって千差万別であるが、外資系VCなど比較的きちっとしたVCの場合のケースでは、図表2のようになる。

図表2.投資を受けるまでのモデルプロセス

 

まずは、投資の交渉に入る前に、できればNDA(Non Disclosure Agreement)を結ぼう。いくら信用できそうなVCでも、後で別の同業に投資することになって、わが社の情報を見せないとも限らない。VCによっては、逆に、そうした制約を嫌ってNDAを結びたがらないところもある。最初に興味を持ってもらうための簡易版と、興味を示してくれたときの詳細版と、事業計画を2バージョン用意しておくのも手だろう。

次に、VCが投資に興味がある、ということになると、投資する意思があることを示すLOI(Letter of Intent)と呼ばれる書面を取り交わす場合がある。そのVCに権威があれば、そのLOIを持って回ることで、他のVCとの交渉がやりやすくなることもあるし、LOIに交渉自体についての守秘義務や独占交渉権が付いている場合には、それはできない。

3番目に、デューデリ(due diligence)というチェックのプロセスが入る。前項のLOIの段階では、投資するかどうかは法律上non-binding、すなわち、実行の義務はないことにするのが普通だが、それは、デューデリをしてみたら、会社側の言ってることと実態がかなり違っていたり、正式契約の条件のすりあわせのときに折り合いがつかない可能性もあるからだ。ベンチャー投資の場合に、VCとして最もチェックしたい項目は、「企業価値が上がってキャピタルゲインが実現するか?」すなわち、事業そのものがイケてるかどうかであり、経営陣がどういう考えを持っているのか、ビジネスプランは妥当なのか、市場はどうなっているのか、などがチェックされる。また、「企業の実態があるか」「会社が法的にきちんと設立され運営されているか」「帳簿は正しく作成されているか」などの法的・会計的側面についてもチェックされる。弁護士や会計士がチェック(review)のために乗り込んでくることもあるし、VCのパートナーやスタッフが質問したり書類を見るだけのこともある。重大な法律違反などが無い限り、事業はイケてるのに法律面や会計面で落とされるということはないと思うが、当然、ちゃんとしておくに越したことはない。法律や会計に詳しい知り合いがいたら、事前に、大きな問題がないか見てもらっておいたほうがいい。

4番目に、投資契約の締結になる。契約書は外資系VCだと、数百ページの厚さになることもある。驚くことに、日系のVCは投資契約を結ばないとか、結んでも紙1枚のことも多い。投資というのは初めての人にとっては非常に複雑なものなので、不利な条件を知らずに飲まされることもありうる。厚さにかかわらず、投資契約に詳しい専門家に依頼して、交渉のプロセスに立ち会ってもらうのがお勧めだ。正式契約が済むと、商法など法律上の手続きを経て投資の資金が払い込まれることになる。


●会社のエヴァンジェリストたれ

ベンチャー投資というのはリスクが大きい。リスクが大きいということは、判断が極めて属人的になるということだ。つまり、投資家との交渉の最終目的は「最終意思決定者」に会って直接説得することだ。いくら担当者レベルで盛り上がっていても、最終意思決定者でコロっと却下、ということはよくあるし、逆に、担当者はあまりいい顔をしていなかったのが、最終意思決定者とはウマがあって投資が決まるということもある。

あなたが投資家に確信させなくてはならないのは、あなたの会社の「ありのままの現状」ではなく、まだ存在してもいない「成功した未来のあなたの会社の姿」なのだ。存在してないのだから、わかってもらえなくてあたりまえ。断られてもくじけないこと。直接目に見えないものを信じさせるという点では、投資家との交渉は「伝道」に似ている。あなたは、あなたの会社の「エヴァンジェリスト」なのだ。あらゆる手段を使って、あなたの事業がいかにイケていて投資に値するかを布教しなさい。VCはプロの投資家ではあるが全知全能ではないので、何もしないであなたの会社の良さを解ってくれるわけはない。プレゼンだけで中身が無いのは困るが、「プレゼンはへただけど実力はあるんだよなー」では、資金は集まらない。また、特に日本の場合、自分の口で「オレはすごい」というより、第三者から「あいつはすごいよ」と言わせるほうが効果があることが多い。直接、熱い情熱を持ってぶつかることも大切だが、第三者からVCに紹介してもらったり、新聞に取り上げられた記事や何かの賞を取ったことなどをさりげなく見せるなど、からめ手の戦術も重要だ。

さて、A社はVCにプレゼンして、投資の確約は取り付けたのか?。次回は、A社の投資の詳細な条件について見ていくことにしたい。


注:
DCF法(Discount Cash Flow Method)
企業の評価方法の一つ。ビジネスプランなどから投資先企業の数年分のキャッシュフローを想定して、それを一定の割引率で割り引いて企業価値を算定する。

ハンズオン(hands-on)
投資家が、金だけ出すのではなく企業の経営に積極的に関与し、戦略や人材の斡旋、取引先の紹介、M&Aや公開などに積極的にサポートをすること。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
コンサルファームで、新規事業コンサル、インターネット技術調査などに従事した後、オンライン証券ベンチャーの設立に参画。その後、投資ファンドのパートナーやCFOなどとして、多数のベンチャー企業の現場に関与。2001年7月より現職。
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ベンチャー企業の「価値」はこうして計れ

米国の同時多発テロの影響を受けて、株価はNYダウ平均で7千ドル台、日経平均で9,300円台まで落ち込んだ。株価は企業の価値を表す指標である。上場している会社なら株式の需給関係で株価が決まるというのは理解できるが、未公開企業の価値(株価)はどのように決まるのだろうか。今回はベンチャー企業の「企業価値」の考え方を解説する。たとえば、あなたが設立した会社「A株式会社」で資金調達を計画しているとしよう。A社は、自らの貯金に合わせて仲間や親類などから集めた資本金1,000万円で設立した。しかし、ウェブサイト立ち上げの費用やオフィスの家賃などで、A社の資金は500万円しか残っていない。銀行に融資の相談に行ったが、担保がないので話にもならない。こうなると、株式を発行して投資家から資金を調達するしかない。


●帳簿価格では見えない企業の価値

では、A社はいくら増資できるだろうか。今後、A社は4人の仲間に参画してもらう予定で、彼らに給料も払わなければならないうえ、サーバーの増強や研究開発資金を考えると、最低でも3,000万円、できれば5,000万円は増資したいところである。
図1は現在のA社の貸借対照表だ。純資産、つまり帳簿上の会社の資産価値は300万円ということになる。この帳簿上の資産価値は一般に「簿価純資産」と呼ばれている。

もし、A社の価値がこの金額(300万円)しかなければ、あなたの増資計画はどうなるだろうか。11月号で説明したとおり、株式とは「会社の価値合計を分割した権利」のことなので、仮に現在の株式の量を倍にする増資をしても、企業価値が300万円ならば300万円しか集まらない。しかし、株式を公開するまでは、どう考えてもA社にはあと数億円の資金が必要だ。わずか300万円で会社の価値の半分を放出したのでは話にならない。
ここで「俺の会社の価値なんてこんなもんさ」と諦めるのも1つの選択だ。しかし、「冗談じゃない。シスコシステムズの時価総額が10兆円なら、その10万分の1の価値(1億円)くらいはあってもいいんじゃないか?」と考えることもできる。考えるのはいいが、それで道は開けてくるのか? 開ける可能性はあるのだ。


●EXITストラテジーの考え方

公開企業の評価を考える前に「あなたはA社をどうしたいのか?」と自らに問うてみる必要がある。経営者による企業観は大きく2つある。

1つは伝統的な企業観だ。日本の経営者の大半は「会社は我が子同然」という発想から、永続的に続く企業(going concern)のイメージを持っている。もちろん、アメリカでも、マイクロソフトをはじめ、創業者が経営を続けている例は多い。

もう1つは、会社を「製品」や「プロジェクト」と見る見方だ。つまり、大企業にはできない技術やノウハウを使って、新しいビジネスを立ち上げて顧客を集め、そのシステムや組織の「かたまり」を丸ごと買い上げてもらうのである。これをバイアウト(buy-out)という。「我が子」を「売る」のは忍びないが、情に流される必要はない。この場合、会社は「製品」なのだ。普通のコンピュータシステムでも数億〜数百億円するものがあるが、そうした単なるプログラムやサーバーに加えて、「顧客」や「提携先との契約」「ページビュー」などもセットで製品として納入しようということだ。アメリカでは、はじめからマイクロソフトやシスコなどの大企業に買い上げてもらうことを意図して設立されるベンチャーも多い。バブル期のような「時が金なり」の時期にはこうしたバイアウト目的のベンチャーは引く手あまただったが、世の中がスローダウンしてしまうとバイアウトの可能性も低くなることは言うまでもない。

投資家が、投資した資金を回収することを「EXIT」(イグジット)というが、「会社をどうしたいのか?」というのは、裏を返せばEXITの戦略(EXITストラテジー)の問題になる。継続的に会社を続けていく場合、キャピタルゲインを目的とするベンチャーキャピタルのような投資家に投資をしてもらうのであれば、EXITとしてIPO(株式公開)を志向する必要がある。後者の場合には、企業を売却するバイアウトがEXITストラテジーということになる。


●会社を「製品」として売る方法

ITストラテジーをバイアウトに定めている場合には、その企業価値を評価する方法は、その会社の「製品」としての価値の評価になる。つまり、「何の製品なのか」によって評価方法は千差万別ということだ。

顧客を集めるマーケティングサイトなら、従来の方法で顧客を集めるために必要なコストや、そうして集めた顧客が生み出す価値(life-time value)と比較したり、システムに強い会社なら、売り先の会社が一から同じシステムを作る場合のコスト(再調達価格)をベースに計算したり、などである。たとえばHotmailは、無料モデルで売り上げも計上されていなかった(もちろん赤字だった)が、当時すでに1千万人のユーザーを擁していた。同社がMSNに売却されるにあたり「顧客1人あたり」の価格算定を行った結果、約400億円の価格が付いた。

また、同じような会社の売買価格を参考にする方法もある。比較相手の会社の何をベースに比較するかで評価は大きく異なるが、比較相手の売り上げと株価をベースにPSRを計算して比較するという評価方法がよく用いられた。なぜならネット企業は利益が出ていないことが多く、利益を基準にして比較ができないからだ。このように、ネットバブル期のアメリカは評価方法の博覧会のような様相を呈していた。現在、よく考えずにそうした評価方法を適用すると「頭がバブっている」と言われる可能性も高いが、今でも会社によってはこうした考え方が適用できることもある。


●行使価格

第3に、行使価格がいくらなのかを見る必要がある。行使価格とは「一株いくらで株を買えるのか」ということである。
図2を見ていただきたい。ストックオプションとは株を買う「権利」であって買う「義務」ではない。公開やバイアウト(会社売却)などで、株を売却するチャンスが来たときに、一株あたりの金額が行使価格より低い場合には、損をするだけなので誰も行使しない。つまり、図の例では、行使価格40万円以下の場合、利益はゼロ、行使価格を超えると株価との差額だけ利益が出る。設立したての会社なら、株価5万円で行使、ということになっていることも多いし、すでにベンチャーキャピタルなどからファイナンスを行っている場合、一株40万円とか50万円での行使になっていることもある。ITバブル崩壊で、今の相場より相当高い水準で資金調達してしまっていると、それに合わせて行使価格も高まっている可能性があるので注意が必要だ。

注:Pは価値(株価)。Eは利益。rは割引率。

PERは、利益Eが永久に出続けるとした場合の現在価値とEそのものの比と考えることができる。(運用利回りに相当する割引率rの逆数になる。)

これからどんどん伸びるという企業は、まずは今後の確固たる事業計画(Business Plan)を立てるべきだ。この事業計画上のキャッシュフローを使えば、DCF(Discount Cash Flow)による価値が計算できる。つまり、どのくらいコストをかけて、どのくらい売り上げが上がるのか、そして差し引きどの程度キャッシュフローが毎年出るのか。このキャッシュフローを想定して、それを一定の割引率で現在価値に割り引いたものがDCFによる企業価値だ。

DCFよる評価はかなり精緻に見える。しかし、そもそも企業価値というものに絶対的な価値は存在しない。DCFの場合も同じだ。「数式2」のとおり、価値を決める要因は大きく2つある。

数式2:

1つは、事業計画そのものだ。希望的観測でキャッシュフロー(Ci)を考えれば、いくらでも企業価値(P)は高まるが、根拠があいまいなものは投資家などの評価者から徹底的に叩かれると思っておいたほうがいい。「売り上げ計画が達成できる根拠は?」「競合が出てきたら、こんなに高い単価は取れないのでは?」「その営業活動のためにどのようなマーケティングやプロモーションを行うのか?」「それにかかるコストはいくらか?」「この計画人数で本当にそれだけのことができるのか?」。個別の要素ごとに、どのくらい真剣に考えているかを、投資家らは質問してくるはずだ。

もう1つの要素は、計算の際に使う「割引率(Discount Rate)」(r)をどの程度に設定するかだ。基本的には国債などのリスクのない運用レートにリスクウエイトを加えた値になるのだが、ここでリスクをどの程度と見るかが、とくに未公開企業の場合はかなり主観的な問題になる。企業を立ち上げてから間もないスタートアップ期は50%くらいの高率で割り引かれてしまう。これが40%に下がるだけで、算出される企業価値が2倍以上も変化することもある。投資家と交渉するときには、この割引率の水準をめぐる駆け引きも重要になる。

さて、冒頭のあなたの会社「A社」は、実際にどのくらいの価値と算定され、実際に調達に成功したのかどうか。次回は、資金調達の実際について取り上げることとしたい。


<用語1>
会社の財政(財産)の状態を表した表。損益計算書が会社の一定期間の売り上げや利益などパフォーマンスを見るのに対し、貸借対照表は特定の時点での財政状況を見る。


<用語2>
PSRとはPrice Sales Ratioの略で、株価売上高倍率のことを言う。時価総額(Price)を年間の売上高(Sales)で割った数値。


<用語3>
Price Earnings Ratioの略で、株価収益率のこと。「株価」を「1株あたりの利益(=税引き後利益÷発行済み株式数)」で割ったもの。1株あたりの利益に対して株価が何倍になっているのかを示す。


<用語4>
現在価値とは、数式1や数式2のように、ある利回り(r)で複利運用したときに将来の収入(EやCi)が生まれるとした場合、その現在の元本の価値。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
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「自分の価値」を計るストックオプション制度

大手電機メーカーが一斉にリストラ策を打ち出した。大手流通業や建設業も大型の倒産が待ち構えている。日本の1400兆円もの個人金融資産の過半は預貯金という形で銀行に流れ込み、それはさらに収益性の悪い企業に流れ込んでいた。この間接金融中心の流れが、今音を立てて直接金融にシフトしようとしている。

「コーポレートファイナンス」という概念は、今までの日本人にはあまりなじみのないものだった。しかし、株式市場が企業を見張る度合いが高まると、(賭けてもいいが)あなたもファイナンスの渦の中に巻き込まれるはずだ。しかし、「おれはテクノロジーは好きだがファイナンスは不得意」と思っている方も多いかと思う。しかし、そういう人のほうがファイナンスに向いている可能性もある。事実、私の知るIT関連企業の財務担当者は、技術系出身の人や技術マインドの高い文系の人が多い。なぜか。


●ファイナンスの知識が必須の時代

ひとつには、当然だが、技術系の会社は技術がわからないと始まらないからだ。これまでの日本のファイナンスは「今まで何をやってきたか」に関することが中心で、会社のやっていることは後づけで理解できればなんとかなった。今後のファイナンスは「会社がこれから何をやるか」「それにどういう”価値”があるのか」を説明できるかどうかが重要な鍵となる。シリコンバレーの企業を観察すると見えて来るように、米国企業の経営は「技術」と「ファイナンス」が表裏一体であり、どちらが欠けても致命的である。特にIT企業の経営においては、技術系の知識と計数的な価値を結びつける能力が必要とされているのだ。

二つ目に、こうした価値などの説明や投資家との交渉を行う際に、やや技術的な計算を伴う、ということがある。「やや」とはどのくらいかというと「EXCELで四則演算と階乗の計算ができるくらい」だ。笑わないでいただきたい。つまり、その程度の「技術」を食わず嫌いの(特に「文系」の)人というのが多い、ということだ。同様に「ファイナンス」というだけで食わず嫌いになっている技術系の人も多いのである。

このような「技術とファイナンスの両方がわかる人材」は、日本では今、非常に不足している。「今、技術者として働いてるけど、給料がめちゃくちゃ安くて・・・」と思っている方。ファイナンスということに興味を持てば、もしかしたら、一桁多い給料が待ってるかも知れない。(保証はしませんが。)そのくらい、今、そのセグメントの人材は枯渇している。「入れ食い状態」といってもいい。

「おれは、財務関連の部門に勤める気は今後も一切ない」という人も、こうしたファイナンスの知識とは関係が出てくる可能性が高い。なぜなら、「あなたの価値」自体が、こうしたファイナンスのロジックで計られることになる可能性が高いからだ。

そこで、第一回の今回は、テーマとしてストックオプションを取り上げることにしたい。ストックオプションは、まさに「あなたの価値」と「企業の価値」をリンクさせるものだからだ。


●意外に理解度が低いストックオプション

ベンチャーを経営する先輩から「いっしょに仕事をやろう」と誘われた。こんなとき、あなたはどうするかどうか?現在の年収は450万円、先輩は「年収は400万円が出せてギリギリだが、代わりにストックオプションを100株出す」と言っている。

年収が400万円。これはわかる。でも「ストックオプション100株」というのはどういうことだろうか?それは高いのか安いのか?どうやったら換金できるのか?

ストックオプションはシリコンバレーなどでは、確実に理解されている概念だ。友達や周囲の人間がみんなストックオプションをもらっているので、わかっていて当然だ。しかし、日本では従来、ストックオプションという制度を利用する会社は少なかったため、まだ、一般によく理解されているというには程遠い状態にある。

ストックオプションというのは、「株をある値段で購入する権利」のことだ。ストックオプションはベンチャーの求人にとっては非常に強力な助っ人である。ベンチャーは往々にしてキャッシュではそれほど給料が出せないため、リスクを負ってベンチャーに就職してくれる人に報いるためには、将来会社の価値が高まったときにストックオプションで報酬を受け取ってもらうしかない。

これにどのくらい価値があるかを考える場合には、大きく次の4点を考える必要がある


●ストックオプションは「数」より「比率」

まず、そのストックオプションの量が、全体の中でどのくらいの比率のものなのか、という点だ。図1を見ていただきたい。株(株式)とは、会社の価値合計を細かくわけた権利のことであり、その株を購入する権利(ストックオプション)をもらうことによって、会社の何%かのオーナーになる権利を持つことになる。だから「何株か」という絶対量ではなく、「何%か」という割合が重要なのだ。

図1.付与されるストックオプションの量と全体に占める割合

日本では、株式会社の最低資本金が1千万円、一株の額面が5万円というような制約があるので、設立したての会社は200株とか400株とか、百株単位の発行済株式しかない場合が多い。一方、アメリカでは設立時の1株を1セント程度に非常に小さくするのが通例なので、ストックオプションでも何万株分といった量が付与されることが普通だ。日本の会社がアメリカ人に「数株分」というオファーをすると「えっ?」という顔をされることが多い。日本では資本政策によって一株あたりの金額はバラバラなので、重要なのは株数ではなく割合だ。同じ100株でも1000株に対しての100株なら10%だが、10000株に対しての100株なら1%である。加えて注意する必要があるのは、すでに発行している株式(発行済株式数)だけでなく、今後株になる可能性のある「潜在株式」の数を含めてカウントする必要があることだ。潜在株式にはストックオプションの他、ワラント、転換社債などがある。(図1)


●ベスティング

次に、その株を購入する権利がいつ使えるのか、が重要である。
会社は優秀な人にはずっと会社に残って働いてほしい。このため、通常の場合、最初に権利を行使するまでに1〜2年、全部の権利を行使するのに3〜5年の期間を必要とする設定にしていることが多い。これをベスティングと呼んでいる。短い期間で全部行使できるほどいい条件に思えるが、他の人も全員そうなら、いざというときに重要なメンバーが一時期に抜けてしまう可能性があるので、バランスを考えて設定されている必要がある。


●行使価格

第3に、行使価格がいくらなのかを見る必要がある。行使価格とは「一株いくらで株を買えるのか」ということである。
図2を見ていただきたい。ストックオプションとは株を買う「権利」であって買う「義務」ではない。公開やバイアウト(会社売却)などで、株を売却するチャンスが来たときに、一株あたりの金額が行使価格より低い場合には、損をするだけなので誰も行使しない。つまり、図の例では、行使価格40万円以下の場合、利益はゼロ、行使価格を超えると株価との差額だけ利益が出る。設立したての会社なら、株価5万円で行使、ということになっていることも多いし、すでにベンチャーキャピタルなどからファイナンスを行っている場合、一株40万円とか50万円での行使になっていることもある。ITバブル崩壊で、今の相場より相当高い水準で資金調達してしまっていると、それに合わせて行使価格も高まっている可能性があるので注意が必要だ。

図2.将来の株価とストックオプション一株あたりの利益

ちなみに、こうしたストックオプションの条件は、税金の問題も含めて非常に複雑なので、遠慮せずに理解できるまできちんと会社側に聞くべきだ。このような条件をわかりやすく説明できる担当者がいない会社は「技術とファイナンスの両輪」がまだ形成されておらず、株式公開やバイアウトといったところまで会社を持っていく力量がまだ無いと見ていい。今無くても今後力量をつければいいのではあるが、株式公開やバイアウトしないのであれば、ストックオプションの価値も実現することは無いことは覚えておいていただきたい。


●会社の「価値」

最後に、最も重要なのが、「この会社の価値が今いくらで、今後どう高まっていく予定なのか」ということである。今の行使価格ベースの会社の価値が12億円で2年以内に100億円になると期待できるとしよう。あなたが1%分のストックオプションを持っているとすると、8800万円*の価値が出てくることになる。300億円になるなら2.88億円*だ。

つまり、ストックオプションの価値を考える際には、結局、その会社の今後の企業価値の成長がどのくらいになるのかが最も大きな要因、ということになる。
ここでいう、会社の「価値」とは何なのか?価値というのは、いかにも抽象的な言葉だが、それはいったいどうやって計算するのか?。次回以降、この企業価値の考え方について取り上げていくこととしたい。


注:8800万円=(100億円−12億円)×1%
2.88億円=(300億円−12億円)×1%
今後のファイナンス等による希薄化は考慮していない。


Isozaki, Tetsuya        磯崎哲也
磯崎哲也事務所代表/公認会計士
コンサルファームで、新規事業コンサル、インターネット技術調査などに従事した後、オンライン証券ベンチャーの設立に参画。その後、投資ファンドのパートナーやCFOなどとして、多数のベンチャー企業の現場に関与。2001年7月より現職。
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